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【今村夏子著『むらさきのスカートの女』文庫解説】英語版翻訳者のルーシー・ノース氏が考える国境を超える魅力

 今村夏子さんの芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』の文庫版が6月7日に刊行されました。芥川賞の選考会でも解釈が様々にわかれた本作。17言語23の国と地域での翻訳版刊行が決定し、世界でも読まれている作品となっています。英語版の翻訳を手掛けたルーシー・ノースさんが寄せてくださった文庫解説を特別に公開します。

今村夏子著『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)

言葉の可能性

 語り手はある女のことが頭から離れない。その女はいつも公園のベンチにすわっていて、遠目には若い女のように見えるが、実はそうではない。顔には「シミ」があることさえわかっている。つまり、語り手は――語り手自身も女だが――しばしばその女のいるベンチに近づき、顔の造作までも仔細に観察しているのだ。

『むらさきのスカートの女』は、その冒頭から読者を引きつけてやまない。わたしはこれまで、河野多恵子の『幼児狩り』、川上弘美の『蛇を踏む』などの女性作家の作品を訳してきた。翻訳を手がけた作品内容からもわかる通り、わたしは以前からある年齢層の独身女性に関心を抱いてきた。だから、当然のごとく、『むらさきのスカートの女』を訳すうちに、彼女をさまざまな場面で観察している語り手も観察することとなり、こう自問するようになった。

 いったいこの語り手の女は何者なのか。この世界でどう生きているのか。

 物語が始まると同時にわたしたちは作品の構造に魅了される。つまり、語り手が女を観察し/読解する一方、読者も語り手を観察し/読解することになるからだ。

 冒頭の10ページで語り手の心理状態はさりげなく描写されている。孤独と経済的な不安のなかに置かれている彼女の世界の捉え方はどこか歪んでいるようにも見える。「むらさきのスカートの女」を観察する語り手は明らかに彼女にとりつかれている――その思考は、時に正気を失っているかのようなのだ。翻訳を進めるうちに、わたしは語り手と女のあいだに複雑な関係があることに気づかされた。語り手は自身が物語っている話の途上で頻繁に道を見失ってしまう。やがてわたしは、別のことにも気づかされた。語り手のほぼすべての描写に別の意味が隠されているということに。語りを通して感じられる不安定さは、語り手自身の正常とは言いがたい心理状態や限られた洞察力のせいでもあるが、彼女のいる世界が残酷なためでもあるのだ。人々は本心を隠しながら、それでいて本音をちらつかせている。そして、わたしはふと思い至る。この物語は一種のブラックコメディでありながら、言いようのない悲しみをたたえてもいるということに。

 語り手は孤独で、ある種の隠遁者のようだ。それでいて、世の中から絶えず除けものにされ、職場の同僚からも無視されている――時おり、自分が存在することすら忘れかけているようにも見える。彼女は自分が排除される身であることを内面化しながら生きてきた。語り手である「黄色いカーディガンの女」が「むらさきのスカートの女」を特別な人間だと考えるのは、他者にとって――それどころか、彼女自身にとっても――「黄色いカーディガンの女」が存在していないからだ。

 本作は、アメリカではペンギン・ランダムハウス、イギリスではフェイバー&フェイバーから刊行され、米欧双方で高く評価された。ペンギン・ランダムハウスのホームページには、ベストセラー作家たちの賛辞が並んでいる。推薦文を寄せたのは、オインカン・ブレイスウェイト(*1)、ヒラリー・ライクター(*2)、ポーラ・ホーキンズ(*3)、レイラ・スリマニ(*4)、そしてケリー・リンク(*5)といった作家たちだ。彼女たちの多くも、ほかの女性に執着するようになった女性や働く女性をオフビートなタッチで描いている。たとえばケリー・リンクは「読みやすくユーモアもあるのになぜか背筋も凍る、ウジェーヌ・イヨネスコ(*6)とパトリシア・ハイスミス(*7)のあいだに生まれた」ような作品だと表現している。また、ジャミ・アッテンバーグ(*8)は「読者を引きつける綿密な描写と針金のように張りつめた文体。素早く心臓を刺されたかのような衝撃的な読書体験」とコメントしている。「カーカス・レビュー」や「フィナンシャル・タイムズ」、「アイリッシュ・タイムズ」、「シカゴ・トリビューン」、「VOGUE」、「ELLE」、「NPR」、「ザ・ストレーツ・タイムズ」といった主要メディアや、「アジアン・レビュー・オブ・ブックス」、「メトロポリス」、「ジャパン・ソサエティ・レビュー」といったオンライン雑誌にも作品を高く評価する書評が寄せられている。少なくともふたつのメディアで年間ベストブックに選ばれ、その他多くのメディアで夏の必読書に選出されている。

 だがそうした書評と同じだけ関心を持ってわたしが見ているのは、GoodreadsやAmazonに投稿している一般読者からのコメントの数々だ。それらは多くの一般読者の正直な感想を伝えてくれる。

 好意的なコメントを寄せた読者たちは、この物語のテーマは孤独であると解釈している。多くがこの作品を「気が滅入る」「不穏」だと感じているようだ。本作を外見への執着についての話――作中でSNSは登場しないが、SNSの流行を反映しているという解釈だ――と捉えた読者もいれば、日本社会の病巣ともいえるいじめやストーカーの話として読んだ人々もいる。フェミニズム的な含意を読み取った読者もいた。本作が、日本の家父長制社会では女性が居場所を得にくいことを指摘しているという読み方だ。女性が劣った存在としてみなされる社会では、女性たちの間にも序列が生まれやすい。他にも、独身で「年を取った(語り手はおそらく30代だ)」女性の社会的基盤の脆弱さと周縁化を指摘するコメントも散見された。作品で用いられる視点の巧みさを称えるものもあった――この作品の語り手は「信頼できない」。何人かの読者は、語り手が「みずからを語りから排除し」ながら、作中にはしっかり存在している矛盾に魅了されたという。窃視と読書の類似点を指摘する声もあった。もちろん、物語の牽引力を純粋に楽しんだ読者もいた。多くの読者が「何度も声を出して笑った」と書いている。最後のはっとするような「種明かし」について、詳細を伏せながら語っている読者たちもいた。

 作品に寄せられた否定的なコメントで特に目立ったものは、わかりやすい結末がなかった、というものだ。「なにが起きたの」「だれかこの結末を解説してくれない?」と。なかには「薄っぺら」だ、「短すぎる」と不満をこぼす読者もいた(だが、短いという感想はほめ言葉ではないだろうか)。不満を抱いた読者たちは「語り手があんなことをする」に至る「理由がわからない」と考えていた。彼らは登場人物と筋書きがめくるめくような展開を見せてくれることを望み、気付きやひらめき、解決などを期待していたのだろう。こうした批判は、日本文学に対してなじみが薄いことにもよるのではないか。日本文学では、胸のすくようなわかりやすい結末が描かれることは、むしろ珍しい。アメリカ版とイギリス版の表紙には、女性の上半身と顔が描かれている(わかりやすい「個性」を備えたキャラクターが登場すると誤解されたのだろうか)。イギリス版の表紙の女性は手鏡を持ち、アメリカ版では眼鏡をかけている。鏡も眼鏡も“解きあかす”ことを示唆するものだ。そうした表紙デザイン、そしておそらくは、当初においてはこの作品がミステリーとして紹介されたことで、探偵小説だと勘違いした読者もいたのかもしれない。

 そのような読者たちに、わたしは、この作品が子どものゲームをモチーフにしていることを伝えたい。今村の作品にはたびたびゲームが登場する。個人的には、ゲームこそが今村の「世界」では鍵を握っているとも思う。ゲームは楽しいものだ。ゲームをするには、ルールを守りながら、参加者全員が協力し合わなければならない。だが、ゲームはすなわち競争であり、危険を冒し、時には――敢えて言ってしまうが――非情な選択をし、人生と同じように勝者がいれば敗者もいるという事実を受け入れなくてはならない。ゲームにも人生にも、途中から参加する者がいれば抜ける者もいて、捕まる者もいれば、逃げだす者もいる。ゲームが興味深いのは、敗者が勝者になることも、その逆になることもあるからだろう。子どもたちは「むらさきのスカートの女」をゲームの仲間に入れる。はじめは単なる思い付きで。そして彼女はプレイヤーとして、子どものゲームを意外なほど巧みに遊んでみせる――子どもたちをだまし、捕まえることさえする。もしかすると、ある時点から、「むらさきのスカートの女」は語り手をだましていたのではないだろうか。はじめから被害者になりすましていたのだろうか? だれがだれになりすましていたのか。だれが負け、だれが勝ったのか。物語が終わりを迎えても、語り手はなんら変化していない。空想のなかの友情が現実となる日を待ちつづけ、周縁に置かれたまま、非正規雇用の不安定な暮らしをつづけている。最終的に彼女は、空想のなかで終の住処を見出したかのようにもみえる――現実の家を失いそうになっているのに。もうひとりの女は消えてしまったが、もしかすると――そう、もしかすると――ふたたび現れるのかもしれない。この物語は繰り返される運命にある。終わりがない。それこそがこの作品の核心である。

 英語で表現した作品が日本語で書かれた作品と完全に同じものになることはない。わたしは翻訳者として、その事実を認めなくてはならない。原作がすばらしいことは疑いようもないが、わたしは異なる道具――すなわち、日本語ではなく英語――を使って作品を表現した。そしてまた、英語版の本作は異なる言語的背景と文化的背景において読まれることになる。時には、著者が原作で用いた言葉が、自分の翻訳で――心からそう望んだとしても――読者に過不足なく伝わるのだろうかと考えこむこともあった。

 たとえば、挨拶について。「挨拶」は英語で “Greetings”と訳されることが多いが、この日本語の単語の定義はもうすこし広く、正式な謝意や励ましの言葉も含む。作中には、ホテルの清掃会社の事務所の所長が「むらさきのスカートの女」に、清掃員としてはきはきと元気よく挨拶できるようにと訓練する場面がある。だが、はたして英語圏の読者は、日本社会では挨拶というものがあらゆる状況で重要だという事実をほんとうに理解できるだろうか――時と場合によっては、挨拶が自己抑制と上下関係の強化という役割さえ担うことをどこまで理解できるだろう。挨拶の言い回しは、表面通りの意味の奥に、相手に何事かを強いる力を秘めている。表現や言い回しとしては簡潔だが、これらは――yoroshiku o-negai shimasu!(よろしくお願いします!)o-tsukare-sama! (おつかれさま!)itte rasshaimase!(いってらっしゃいませ!) arigato gozaimasu!(ありがとうございます!)――あるシステムにおける立場をわきまえる意思があると表明するための社交的言語である。わたしの印象では、作者は一人称で用いられるdaijobu desu(大丈夫です)や、他人を評するときに用いられるshikkari shite iru(しっかりしている)や majime(真面目)――これらは特に女性に望ましいとされる資質ではないだろうか――のようなごくありふれた言い回しでさえ、自らの言葉遊びの一環として用いているようにも見える。

 人間が言葉を支配しているのか、それとも、言葉が人間をとらえているのか。言葉を用いながら、それでいて言葉にとらわれずにいることは可能なのだろうか。わたしは、このこともまた、今村の作品に込められた問いのひとつであるように思う。

編集部注
*1 オインカン・ブレイスウェイト=一九八八年生。ナイジェリアで生まれ、イギリスで育った作家。邦訳刊行書に『マイ・シスター、シリアルキラー』。
*2 ヒラリー・ライクター=ニューヨーク州ブルックリン在住。“TEMPORARY”(邦訳未刊行)が二〇二〇年に主要メディアの年間ベストブックに相次いで選出された。
*3 ポーラ・ホーキンズ=一九七二年生。ジンバブエで生まれ育ち、現在はイギリス在住の作家。邦訳刊行書に『ガール・オン・ザ・トレイン』。
*4 レイラ・スリマニ=一九八一年生。モロッコ生まれ、現在はフランス在住のジャーナリスト、作家。邦訳刊行書に『ヌヌ 完璧なベビーシッター』。
*5 ケリー・リンク=一九六九年生。アメリカの作家、編集者。邦訳刊行書に『スペシャリストの帽子』『マジック・フォー・ビギナーズ』ほか。
*6 ウジェーヌ・イヨネスコ=一九〇九年生。フランスで活躍したルーマニアの劇作家。邦訳刊行書に『授業/犀(ベスト・オブ・イヨネスコ)』ほか。
*7 パトリシア・ハイスミス=一九二一年生。アメリカの作家。『太陽がいっぱい』『水の墓碑銘』などベストセラー多数。
*8 ジャミ・アッテンバーグ=一九七一年生。ルイジアナ州ニューオーリンズ在住。邦訳は未刊行だが、“The Middlerteins”などの著作が十六言語で翻訳されているベストセラー作家。

 ルーシー・ノース略歴
マレーシア、クアラルンプール生まれ。現在、イギリス南部に居住。
ケンブリッジ大学にて修士号、ハーバード大学にて博士号取得。
翻訳した主な作家として今村夏子、円地文子、小山田浩子、川上弘美、河野多恵子、高橋たか子、八木詠美など。


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