見出し画像

源義経はなぜ非業の死を遂げたのか?「査定」に泣いた軍事の天才の真実

 組織のなかで生きる多くの現代人にとって、「人事」は無視できないものだろう。それは歴史上の有名人たちも同じことだ。『人事の日本史』(2021年、朝日新書)は、歴史学の第一人者たちである遠山美都男、関幸彦、山本博文の3氏が人事の本質を歴史上の有名人や事件に求め、多数のキーワードから歴史を読み解いたユニークな日本通史。本書から、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目されている源義経の「査定」について一部を抜粋でお届けする。

『人事の日本史』(朝日新書)
『人事の日本史』(朝日新書)

「毒まんじゅう」は裏切りの密約に対する報酬を意味するかつての流行語だ。

 念のために説明しておけば、平成15年の自民党総裁選において、反小泉純一郎首相派と目された政治家が小泉氏支持に転じたのは、総裁選後の有力ポストを約束されたからではないか、という故・野中広務氏の非難に由来する。

 懐柔のエサとしてのポスト――それを、「毒まんじゅう」と表現したわけだ。

 人事が懐柔の手段に使われるのは、政治の世界だけでなく、今日の会社組織でもよくあることだろう。日本史を振り返っても然りで、その代表例として思い浮かぶのが、源義経である。

 平氏討伐に力を振るった義経は、日本史上の人気ヒーローとして、3本の指に入るだろう。お馴染みの牛若丸と弁慶の話は室町期に書かれた『義経記』に取材したお話ではあるが、能力も実績もあった彼が、兄の頼朝に嫌われ、諸国放浪を強いられた後、非業の死を遂げたのは史実である。

 判官贔屓の言葉どおり、この悲劇の主人公への民衆の人気はずっと高かった。一方、そのせいで頼朝のほうは分が悪い。義経との関係では、どうしても情を欠いた悪役イメージになる。

 だが、そもそも、なぜ頼朝と義経の兄弟は不和となったのか。ご存じの方も多いだろうが、義経が京都から与えられたポストに、頼朝の許可なく就いたからである。しかし、そのことが、なぜそれほど頼朝を怒らせたのか。

 それは要するに、義経に与えられたポストが、頼朝から見れば「毒まんじゅう」にほかならなかったからだ。

 例の野中氏の「毒まんじゅう」発言にさいしては、世間は野中氏の非難に共感したようだった。それならば、義経を追放した頼朝の立場についても、人々はもう少し理解を示していいだろうと思うのである。

源義経像(中尊寺蔵)

■組織の方針への無理解

 義経が、武人として、抜群の力量の持ち主であったのは確かである。

 その力を天下に轟かせたのが、元暦元(1184)年の一ノ谷の合戦。義経が司令官として指揮し、平氏を破った最初の戦闘だ。

「毒まんじゅう」事件はその直後に起こる。京都の王朝の代表、後白河院が、義経の武略と武功にたいし、官職の授与を申し出た。示されたポストは検非違使の尉。警察と裁判官を兼ねたような地位で、「判官」とはこのポストの別名だ。義経はこの申し出を頼朝の許可なく「食って」しまう。とはいえ、後白河側からすれば、昇殿が許されるための資格も必要なわけだから、無位無官では昇殿は難しい。そんな事情もあった。

 これが頼朝の逆鱗に触れる。なぜか。

 頼朝の立場になって考えてみよう。頼朝の目指していた東国自立主義において、王朝と一定の距離を保つことは最大限に重要だった。頼朝が鎌倉を動かなかったのも、ひとえにこの理由による。

 もちろん頼朝は、地理的な距離だけで自立が保障されるとは考えていなかった。頼朝は、御家人たちが人事をエサに王朝に取り込まれるのを当初から恐れていた。

 東国武士は基本的に無位無官で、「恩こそ主」を標榜していた。しかし、官位に無関心だったかといえばそうではない。いざとなれば「名誉」に弱いのが武士だと頼朝は知っていたのである。

 官職の授与は、王朝側の最大の政治的武器である。この「武器」を使い、京都は東国武士を懐柔し、組織の分断を図ろうとするだろう。

 だから頼朝は御家人たちに厳命していた。「自分の許可なく官職に就くな」「朝廷への推挙は自分が行う」と。すなわち頼朝は、人事権の掌握こそが、いまだ不安定な東国の自立と組織の団結の要だと、正しく認識していた。

 そして頼朝から見れば、この政治的現実と組織の方針を、鎌倉殿(頼朝)の代官である義経は、一般の御家人以上に理解すべき立場にあった。それなのに、なぜ――ということになるのだ。

 許可なく任官したことだけが問題なのではない。まだ20代の義経に差し出されたポストの重さを考えれば、後白河院が義経を、頼朝の対抗馬として取り込もうとしていると疑って当然であった。「毒まんじゅう」たるゆえんである。

■低かった「人事部長」の査定

 もっとも、義経には、王朝と組んで頼朝に対抗しようなどという気はなかっただろう。

 義経が考えていたのは、父・義朝を討った平氏への復讐と、源氏の家名を高めることだけだったはずだ。彼が官職に飛びついたのも、それが源氏の名誉だと考えたからではないか。

 義経は、よく言えば純真、悪く言えば単純だった。悲劇の真の原因は、ここにあると言うべきだ。

 義経のその「単純さ」をよく物語るのが、一ノ谷の合戦から約1年後の、屋島の合戦での、梶原景時との対立だ。

 景時は、司令官・義経に対して、副司令官の立場にあった。この二人が、讃岐・屋島での戦略をめぐって激論となる。『平家物語』が記す有名な「逆櫓の争い」だ。論争の焦点は、屋島に渡海する船に逆櫓(後退時に必要な櫓)を取りつけるかどうか、であった。

 退却のことを初めから考えるのは弱気にすぎる、前進突破あるのみ、というのが義経の主張。それは無謀だと諫める景時を、義経は臆病者扱いした。結果的には、義経の「猪武者」ぶりが当たり、戦に勝利する。しかし、公平に見て、義経の玉砕主義は危険であり、冷静な景時の主張のほうに理があっただろう。

 戦場では義経の部下であった景時だが、目付け役として頼朝の信頼が厚く、いわば鎌倉の取締役人事部長的な地位にあった。景時は、このときの義経の態度に性格の欠陥とリーダーとしての不適格を感じ、それを頼朝に報告した。

「自由、自専の人」、すなわち、わがまま勝手な人だ、と。

 この讒言、すなわち「告げ口」のために景時には悪役イメージがあるが、「毒まんじゅう」事件をあわせて考えると、梶原景時・人事部長の「査定」は正しかったと言うべきではないか。義経の独断専行の傾向を見抜いていたのである。

 この時点ではまだ頼朝との対立は表面化していない。しかし一ノ谷の合戦から約1年間、鎌倉から合戦の指令がなく、義経は「干されて」いた。その間に義経が多少とも態度を改めていれば、彼の運命も変わったかもしれない。だが義経は、その意味に気づくこともなかったようだ。

 そして文治元(1185)年、義経は戦場に復帰し、屋島の合戦を経て、壇ノ浦で平家を滅亡に追い込む。義経の目覚ましい活躍による勝利だ。

 ドラマなどではここで、「今度こそ鎌倉殿は自分を評価してくれるだろう」といった台詞を義経は吐く。しかし、平氏が滅んだことで軍事的天才・義経は頼朝にとって用済みとなり、むしろ敵に利用されやすい危険な存在となったのである。

 あとはご承知のとおり、義経は頼朝から追われる身となり、最後は陸奥で藤原泰衡に急襲されて自害する。31歳の若さだった。

 義経に欠けていたのは、つまりは組織の一員としての自覚だろう。頼朝や景時が組織の維持をつねに最重要に考えていたのに対し、義経は終始、個人プレーの人にとどまった。

 有能な情熱家が、いつのまにか組織の異物となり、最後には無情に排除される――義経の悲劇は、今の会社でも起こりそうな人事的悲劇である。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!