見出し画像

このあと魚が生き延びられるかを「選ぶ」【毎日note】#99

今日もオニヒラアジ狙いでいつもの開けた砂地へ。オニヒラを狙って中層~ボトム(といってもいつも水深50cm弱だけど)をひくルアーを投げると、必ずと言っていいほどコチが釣れる。

画像1

コチの頭は平たく、口は堅くて厚みがないので、針がかかっても外れやすい。コチが食ってきたときの「アタリ」は感じづらいのに、手前に寄せてきてからようやく暴れ出して、その時点で針が外れてしまうことが多かった。ナチュラルリリースってやつだ。

けれど今回は、コチがルアーを大きな口の中に丸呑みしていた。沖縄ではマックス80cmを超えるミナミマゴチだから、子どもといって差し支えないであろう25cmちょっとのサイズだった。エラの内側に針が引っ掛かり、「これはリリースできないかもしれない」と思った。それでも、口の中にプライヤー(はさみ)を突っ込み、なんとか外そうともがいた。以前、コチよりももっと小さいメッキが丸呑みしたルアーを外したこともあった。

ルアーは何とか外れたが、外す時にエラの内側が曲がってしまっていた。海に開放するも、水中を漂って、去っていかない。波に揺られ、時にひっくりかえってヒラメのようなまっしろいお腹を上に向ける。波打ち際で、もう一度コチを掴んだり、手で押しやってみたけれど、コチは泳ぎ去っていかない。ただ、波の寄せるままに漂っている。

ああ…これは、だめなのだろうか。エラは、きっと急所の一つのはずだ。それに針を外すために長いこと水から出してしまった。どうしよう。どうしよう。このまま水の中に置いていっても、死んでしまうのなら、捨てるのと同じだ。それなら、身もアラも、骨からとれる出汁まで、責任をもって食べたい。だけど、もしこのまま蘇生して生きながらえるのだとしたら?

私にそれを正確に判断できる知識と経験はなかった。

だから、これは「判断」ではなく、仮定をつくった上での「選択」だった。「死んでしまう」と選択した。コチが生きるか死ぬかを選択した。


もっと何も考えず、「食べたいか食べたくないか」とか、「捌きたいか捌きたくないか」で判断しても、間違いではないのだろう。持ち帰るのもリリースするのも、保護対象の生き物でもない限り釣り人の自由だ。

頭ではわかっていても、砂地を漂うコチを見ながら、私はいつか釣りをやめるかもしれないと思った。私は自分のエゴ、オニヒラアジを釣りたいという願望のために、たまたま釣れたコチを、そういうつもりはなかったにしろ、虐待した。そういう思いを消すことができない。

「ゲームフィッシング」というジャンルを、言葉を、私はまだ真正面から受け止め切れていない。

その晩捌いてお刺身で頂いたコチは、ほどよい歯ごたえの身質で、しっかりとしたうまみと甘みがあり、とてもおいしかった。明日の朝、アラを使った潮汁を頂いてまた釣りに出かけようと思う。

画像2




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?