ひとり川辺に立つときは ~北海道からの沖縄移住記 2021年6月~
仕事の帰りに、近所の川に寄って釣りをするのが日課になりつつある。夕方の川辺で、風や陽射しや水の流れ、魚が跳ねる音を感じると、一日中蛍光灯の下で冷房を浴びていた身体が、生き返るような思いがする。通りからは、帰宅する高校生のはしゃぎ声や、犬の散歩をする親子の会話が聞こえてくる。魚に会えても会えなくても、満ち足りた気持ちになる、いい時間だった。
休日の昼間に私が通っている川は、ほとんど誰も来ないお気に入りの場所だ。マングローブに縁どられた広々とした河口は、最初に住んだ西表島を思い起こさせる。潮が緩く風もないと、深緑色の川の水面は池のように静まり返って、周りの景色を映し出した。こんな日は、大小のボラの群れやチヌの姿、時には大物の立てる引き波もくっきり見える(それはもう興奮する!)。
顔を上げれば新緑が眩しい木々と、飾り付けたような白いクチナシの花。鳥たちの鳴き声も、足元で小さなハゼがジャンプする音も、シオマネキが動く気配も、くっきりと私の五感に届く。水辺にひとり立っている時、私はとても幸せだった。
方言で「カースビー」(和名:ゴマフエダイ)という魚をこの場所で釣った時も、そこにいたのは私だけで、陸に横たわった三十センチ以上もあるその魚と、私は目と目をしっかり合わせて向き合っていた。明らかに意思のある大きな目が、住んでいる川に戻してくれと訴えているように思えた。私はこの魚を食べるため、脳天とエラにナイフを突き刺し、血を抜いた。虫を殺す時とは違う、ひとつの命を終わらせた強烈な自覚があった。
釣りが私に見せてくれる世界の奥深さは計り知れない。釣竿を通じて、水中の豊かな生命の気配や、その生命を育む陸の自然や風土のことが伝わってくるだけでなく、自分も含めてそれらを汚す人間のエゴまでもが、明瞭に突きつけられる。水辺に通うことによって研ぎ澄まされていく私の五感と感性が、今までよりもずっと敏感に、たくさんのことを知ろうとしている。
写真:沖縄の短い川は海の潮位に影響される。この時は長潮で、前日私がつけた足跡が水中に残っているほど流れが緩い。
あさひかわ新聞2021/6/15号「沖縄移住記32 果報(カフー)を探して」掲載
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