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③新しい生活のはじまり

温かいスープでお腹を満たし、穏やかな静けさに包まれた部屋で柔らかい布団にくるまりぐっすり眠った。普段はあまり目覚めがよくない方だが、すっきりとした目覚めで朝を迎えた。

語学堂での授業が始まるまで10日ある。

それまでにしなければいけないことが、引越しとクラス分けのテストだ。

今日は早速、アパートに入居する日だ。

午前中に不動産に行って、契約書にサインする約束になっているため、出かける支度を始める。祖母が昔から使っていた年季の入った布製のスーツケースに再び荷物をぎゅうぎゅうに詰めて、ロビーに降りる。

目下の課題は、無事に不動産に辿りつけるかということだ。それほど知られていないが、韓国はGoogle mapがあまり正確に作動しない。代わりに、地図も検索エンジンも独自のアプリが発達しているのだ。慣れ親しんだ東京でGoogle mapを凝視しながら歩いても、よく道に迷うほどの方向音痴のため、移動が一番の心配の種だ。

まだクレジットカードもなく、便利なアプリについてもよく知らない。おまけに土地勘もない。気軽な旅行先として代表的な韓国だけれど、ハングルを読めなければかなり苦労することもあるだろうな、とふと思った。

フロントでハングル表記の住所を見せて、タクシーを呼んでもらうように頼むと、日本語の話せる方だった。それだけでとても安心する。アプリで呼んでもらったタクシーは5分以内に到着した。思うように動かなくなっているキャスターをなかば持ち上げるように転がしながらタクシーに乗り込む。

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不動産に向かいながら、契約した部屋は果たして大丈夫だろうかと少しの不安がよぎる。

小さな引越しを含めると、仕事を始めてから6回の引越しをしてきた。

今回が7回目だ。そして、初めて直接内見をせずに決めた部屋だった。

家探しは想像以上に大変だった。

ソウルであれば何の問題もなかったのだと思う。日本人向けの不動産サービスを提供している会社がいくつもあるからだ。日本でも対応してくれる人がいるところがほとんだ。

でも私が住む都市には、ネットでさんざん検索したけれど、そうした会社は一つもなかった。ということは、頼れる韓国人の知人がいない限り、自分で不動産屋と直接やり取りをしなければいけないということだ。もちろん韓国語で。

日本人で家探しの情報をブログに書いてくれている人はいたけれど、結婚相手が韓国人で、その点が私と大きく違った。その人たちのブログでも、いくつか不動産を回ったけれど、「押しがすごく強かった」「条件がいい部屋がなかなか見つからない」という内容もちらほら見られ、どうしようかなぁと考えあぐねた。

ソウルには親戚がいる。その人に手伝ってもらおうか、という考えもちらりと頭をかすめたが、それほど親しくはないのだ。時折近況は連絡しているが、考えてみれば最後に会ってから12年も経ってる。仕事も激務だと聞いているので、それとなく打診してみることさえも申し訳ない。

家を探すことができない、という課題を前に、片っ端からソウルにある日本人向けの不動産サービスを提供している会社に電話をしてみた。そのうちの1社が、何とか手伝ってくれることになり、ほっと胸をなでおろした。

しかし、それからも困惑の連続だった。

日本であれば、物件の希望条件を伝えると、数日内にいくつか条件に会う物件の情報を送ってくれるものだ。しかし、依頼したエージェントからは一向に連絡がこなかった。

頼みの綱として依頼したエージェントだったが、評判の良くないところだったのだろうか、という思いがよぎる。再度問い合わせてみると、韓国では1カ月ほど前になってようやく空き物件の情報が出るらしい。

それでも、入居予定日の3週間を切っても情報は送られてこなかった。

もうすぐで2週間前、というところでようやく連絡が来た。

どうやら、大学のすぐ裏にある学生エリアで探しているため、空きが出ても次の日問い合わせるともう契約済みになっている、という状況らしい。韓国は日本より1カ月早い3月入学のため、2月上旬のこの時期はちょうど新入生が部屋探しをするタイミングと被っていたのだ。不動産屋も次から次へと情報を更新して契約するのに忙しく、エージェントの人もなかなか情報を把握できないとのことだった。

代案として、日本語が堪能なエージェントの人がソウルから出向いて、Zoomを使ったオンライン内見を設定してくれることになった。写真で見るよりははるかに多く情報を得られるためありがたい。

いざオンライン内見の当日を迎えると、2時間ほどを予定されていた内見はものの40分ほどで終了した。部屋を見ている間も、内見を予定していた部屋を他の人が押さえて空きがなくなるなど、状況がどんどん変わっていった。どうやらその日が合格発表の最終日だったらしい。画面越しにも、両親を連れて内見している学生の姿が映っていた。

不動産屋の人にも「今決めないと、1時間後にはなくなっているかもしれません」と言われる。こんなに即決で決めていいものかとも思ったが、幸い大丈夫そうな部屋が候補にあった。気になる点は全て聞くことができたので、その場で4つ内見したうちの1部屋に決めた。

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そんな慌ただしい経緯で契約していたため、実際に部屋を見るまでは若干の不安はあった。

不動産に到着すると、他にも契約書にサインをしにきた学生らしき人たちで溢れていた。オンライン内見を手伝ってくれたエージェントの人が、今回も画面越しに通訳をして手伝ってくれた。契約書の注意事項についてごくごく簡単に説明を受けると、次の入居者の約束時間が迫っているらしく、その場でサインをし終了した。

立ち合い入居、というシステムはないみたいだ。建物の暗証番号を教えてもらったものの、行ったこともないし、スーツケースも一人では歩いて運べないほど重い。戸惑って立ち尽くしていると、見かねた手の空いているスタッフが、車で家まで送ってくれることになった。

そんな諸々の経緯を経て、昼頃には無事に入居することができた。

ベッド、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、机、椅子、本棚、収納。

生活を始めるために必要なものは最初から揃っていて助かる。

画面越しに見ていた通り、清潔で、環境もよく、一人暮らしをする分には何も問題なさそうだ。

机に備え付けられた椅子に腰かけてみる。冷え切った空気をほのかに柔らかくしてくれる早春の日差しが部屋に差し込む。広々とした机が南向きの窓に面しているところが一番気に入ったポイントだった。両手を広げた長さと同じくらいの大きさだ。これから1年間、ここで勉強して、仕事をして、文章を書く。

新しく住む部屋はいつもよそよそしい。

少し前まで他の主が住んでいた雰囲気を感じる。知らない人の家に留守の間にこっそり忍び込んでいるみたいで落ち着かない。

さぁ、まずは水ぶきをしよう。それから持ってきた荷物の荷ほどきをして、少しずつ形を整えていこう。

今日からここで新しい生活が始まる。

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