飼うこと

他愛もないことほど、考え出すと際限がなくなる。他愛もないことほど、結論が出ない。

おそらく、他愛もないことほど生活に密着していて、理詰めでなく無意識や本能で関わっていることが多いからだ。答えを必要としていないし、答えは定まらないし、答えを求める行為そのものが傲慢である時さえある。

ペットとは何かという疑問も、立派に他愛もないだろう。

筆者は現在マンションに住んでいて、ペットを飼っていない。しかし実家では長い間、柴犬を飼っていた。メスなのに名前はジョンだった。

筆者が生まれる少し前に叔母が飼いはじめ、その叔母が近畿に引っ越してから私の家で飼うことになったのである。筆者が中学生の時に、推定17歳で大往生を遂げた。

ジョンの墓参りをする度に、いつもふと頭を過ぎることがある。

ジョンとは何だったのか。ペットとは何なのか。

家族のようで、血は繋がっておらず、お墓も私のご先祖とは別になっている。

友達のようで、家で常に一緒にいて、助け合い、病気や脱走にもとことん付き合ってきた。

親戚?同居人?仲間?どれも違う気がしてくる。

ペットはペット、それ自体が特別な存在、例えようのない人生経験としか表現できないのではないか。

そして、ペットという言葉一つにも様々な関係性がある。

ジョンの死後、実家の庭に住み着いたネコの親子がいい例かもしれない。

このネコ一家は夜から朝にかけては私の実家で睡眠をとり、日が昇るとご近所の屋根やブロック塀を散歩する。夕方になると実家からは見えない所まで移動しているようで、でもまた夜になると実家に帰ってくる。

典型的な野良猫の生活スタイルであるが、これが妙に面白い。

まず、このネコ一家は筆者や筆者の家族に懐いていない。特に母ネコは、目が合うとムッとした表情で睨み返してくる。筆者が敵意のないことを示すために両目をゆっくり瞑る動作をしても、一瞥するだけでシュールな形相の筆者を残し、スタスタとどこかへ行ってしまう。

また、そのネコ一家は巡回先で、他のネコたちといつも会議をしている。たまに喧嘩もしているが、彼らなりの社会秩序でうまくやっているようだ。

さらに、ネコ一家は行く先々で、人間たちに色んな名前を付けられている。名前を複数つけられるとはいい加減な感じもするが、これも立派な、ネコと人間の特別な関係性である。

動物にもそれぞれ性格や事情がある以上、その動物たちと一緒に住む時は、色んな形の関係性が生まれることになる。そしてその関係性はやがて思い出となり、人生を彩っていく。

その関係性一つ一つをひっくるめてペットと呼ぶとすれば、ペットとは人生の写し鏡のように無限で、しかし人生を大きく変えていく、不思議な力を持った存在ではないだろうか。

ペットは人々を、生活を豊かにしている。古代エジプトの時からそうだった。ペットという人類の遺産に感謝しつつ、今日も気づけばイヌネコ画像に他愛もなく癒されている。

ちなみに、筆者のように身近な全ての動物たちに愛着を感じるようになると、何年も蚊を殺さない記録を更新するという域に達してしまうことがある。ただ、これは感染症拡大の危険性もあるので、読者の皆様には真似されないことをお勧めしておきたい。

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