月と記憶

昨夜は、上弦の半月が出ていた。春の月は真横になって寝るように浮かぶのだが、もう春分をだいぶ過ぎて斜めになっている。

加えて筆者のいる東京では、赤みがかかって大きく見えた。

月は大気の状態によって小さく青白くなったり、大きく赤くなったりする。より輝くのは仲秋の頃に見られる小さく青白い方だが、湿度のあった昨夜は、大きく赤みがかった月だった。

日付が変わる頃、筆者はその月を見ながら歩いていた。ちょうど大学時代の友人達との飲み会を終えて、駅から自宅まで遠回りして歩いていたのである。

大きい月。

ご存知の方もおられると思うが、月は慣性の法則や宇宙の膨張などの影響で、年に約3センチずつ地球から遠ざかっている。

1年で3センチ、10年で30センチ、100年で3メートル、そして、藤原道長が摂政になった時からは30メートル。「望月のかけたることもなし」も、藤原道長は現代より30メートル間近で確認できていたのだろう。

勿論こんな距離、月と地球の壮大な距離感を踏まえれば誤差の範囲内にも見えるが、月は否応なく遠くなる。

こう考えれば、大きい月には妙な懐かしみを覚えてしまうのである。あの頃の月は今よりもほんの少し近くて、だから平均的には、今よりもほんの少し大きかった。

ほんのちょっぴり、あの頃に戻れたような気がする。

なおさら、である。筆者の身長は3センチ以上伸びなくなって久しい。幼稚園や小学生なら、年に3センチやあるいはそれ以上伸びる。月との追いかけっこに無意識に勝っていたのだ。

子供の頃、縁日の屋台越しに見ていた月、流れ星を探した日に家族で眺めた月、ボーイスカウトのキャンプや夜間歩行でわいわいしながら見守られていた月、皆既月食を何時間もかけて観察した時の月、今は伐採された桜の枝からいつの日か覗いた月。みんな遠くなんてなっていなかった。

ただ、そんなことも今はもうないから、嘘でも錯覚でも大きい月の夜は貴重で、いつかの思い出を引き出しやすくさせてくれるのだ。

ちょうど大学時代の友人達と飲んだ夜に、大きい月を眺めながらそんなことを思った。そして朝になっても頭を離れていない。

次にふと月を見上げるのはいつだろうか。その時はどんな事を思うだろうか。ただ、月はいつも何も語らず、何を見せるでもなく、淡々と道行く人を覗くだけだ。

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