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【怪談】 トイレのオムさん

 あれはちょうど六年前の夏、オムと呼ばれる男とよくセットを打っていたころの話だ。
 クマのような外見と、良い意味でズカズカと踏み込んでくる不器用さが好かれ、ヤツの周りにはいつも人が集まっていた。

 一方で、その不器用さが短所にもなっていた。誰もが知るようにヤツは注意が足りないところがあり、さまざまな場面でトラブルに発展することがあった。

 この日もヤツの不注意が原因で、おれの記憶にいつまでも残るような最悪の事態を招いてしまうことになる。


 いつものようにオムから一方的なセットの誘いがあった。

「金曜の夜ヒマ?9時から麻雀しようぜ。場所は池袋な。面子集めよろしく。」

 当時のおれは富裕層に観賞用のエビを売り付ける仕事で忙しかったが、オムの誘いだけは断ることはなかった。おれはヤツのこういう図々しいところを好いていたからだ。
 仕事の合間を縫ってようやく3人集めることができ、余裕を持って5人体制で打つことになった。

 指定された池袋ZOOへ向かい、約束の10分前に到着。店内を見回すと、すでに卓に着いていたオムがこちらに向かってぶんぶんと大きな手を振る。

「おまたせ」おれが声をかけると、ヤツも「いま来たところだよ。ふぅーーー」と挨拶代わりの副流煙をお見舞いしてくれた。ほかの面子も続々と集まりはじめ、全員が揃ったころにはヤツのやる気も頂点に達したようで、副流煙を湯気のように身体にまとっていた。

 5人打ちのセットは当然あまりが発生する。最初の抜け番を引いたのは他でもないオムだった。

「なんだ、俺が抜け番かよ。仕方ない、おまえの打ち筋でも見てやるか」そういいながら副流煙のダブルバレルを打ち、おれの後ろに移動しようとしたそのとき、事件は起こった。

 ガシャン、と雀荘で聞いたことのない大きな衝突音がおれの真横で轟いた。

 驚いて目をやると、そこにはひっくり返ったサイドテーブルとチップが転がっている。どうやらオムが脚をひっかけて倒してしまったようだ。

 さらにマズいことに、オムの吸い殻が入った灰皿も吹っ飛ばし、あろうことか隣卓で打っていた男のバッグにぶちまけてしまったのだ。無漂白の綿製とみられるベージュ色のバッグに、オムのタバコの吸い殻、そして黒く濁りきった水が完全に直撃していた。

    えらいことになったぞ。おれたちがおののいていると、バッグの持ち主らしいその男はこちらへ振り向き、怒りの込められた声で静かに言った。

「おい・・・お前なにやってんだよ」男の殺意を察したオムは慌てて謝罪する。「あ、あああ・・・すみません・・・」さっきまでの威勢はどこかへ消え去り、明らかに気が動転しているようにみえた。完全に修羅場である。

 ここでまずやるべきことは、誠意を込めた謝罪、そして相手が落ち着いてきたらバッグのクリーニング代もしくは弁償の相談するのが良いだろう。しかし、問題はバッグの中身だ。ここに高価なものが入っていたら、弁償の費用は桁違いに高くなるだろう。いったいどんなものが出てくるのか、少しばかり楽しみでもあった。

 ところが男は予想外の要求をする。「すぐに洗えよ。元通りにしてこい」そういって中身に入っていた財布を取り出し、8割ほど黒く汚れたバッグをオムに突きつけた。朝までに元に戻せということである。クリーニング屋などこの辺りにはなく、あったとしてもこんな時間まで営業していないだろう。ある意味、弁償よりもキツイ仕打ちかもしれない。

「ヘ、ヘイッ・・・!!」オムはバッグを両手で受け取り、使いっパシリのようにトイレへ逃げていった。


 おれと同卓していた紳士風のAが言った。「こんなことは今までなかった。やはり彼は"持っている"ね。」続けざまにオムの同級生であるBも身を乗り出す。「予定をキャンセルしてまで来て良かったよ。今日は誘ってくれてありがとう。」麻雀がはじまる前にお礼を言われたのはこのときが初めてだった。「彼と打ちたかったな。朝までに帰ってきてくれればいいが・・・」ニヤニヤとしながらCも呟いた。内容と表情がまったく一致していない。皆それぞれ残念そうなセリフを口にしてはいるが、心の底ではこういう展開を望んでいたに違いない。かくいうおれもその一人であった。


 素晴らしいイベントで始まったセットは麻雀のほうも白熱した。区切りがついたあたりで、思い出したようにBが言う。「あれ?もう2時間も経っていたのか。そういや、オムのやつはどうなったんだ?」
 おれが「ちょっとみてくるよ」と席を立ってオムの様子を見に行くと、洗面台でバシャバシャとバッグを洗う中腰のクマがそこに居た。

 「おう、元気そうじゃん」「はぁ・・・全然落ちない・・・クレンザーも使えないし・・・」バッグは無漂白だったので、クレンザーでは元のベージュ色まで落としてしまう。パニック状態のわりにはよく気がつくものだなとおれは感心した。

「大変だろうけれど、がんばれよ。こっちは上手くやっているから。」おれは遠距離の友人みたいなセリフを残してトイレを出た。

 卓に戻り、「あずき洗いみたいにバッグを洗っていたよ」と皆に伝えると、三人とも満足した表情でうなずき、次の闘牌に取りかかった。


 それからさらに4時間ほど経ち、時刻は午前3時。
「オムはまだ終わらないのかい?そろそろ彼と打ちたいな」Aが言った。これは本音のようだ。「もう一回見てくるよ」おれが再びトイレへ向かうと、今度はブォオオオオオという騒がしい機械音が響いてきた。おそるおそるドアをあけると、オムは両手でバッグの口をひらき、ハンドドライヤーで乾かしているところだった。

「おう、がんばっとるな」おれが声をかけると、オムは「はぁ・・・もう腕が上がらないよぉ・・・泣きそう・・・」と泣き言を吐いた。「終わったら麻雀打とうな」おれは笑いをこらえながらヤツの肩をたたき、そのままトイレを後にした。

「今度はハンドドライヤーで乾かしていたよ。洗濯から乾燥まで、丁寧な手作業、深夜も営業、人気のクリーニング屋オムちゃんです」「やっぱ手に職つけるのは大事だな」「彼の将来は安泰だね」そんな会話を繰り広げ、何事もなかったかのように麻雀へもどった。


 それからしばらく経ったころ、汚れが落ちたキレイなバッグを持った猫背のクマがトイレから出てきた。

「すみませんでした、ご迷惑をおかけしました」オムが頭を下げてバッグを持ち主に返す。隅々まで確認した男は「おう」とだけ言ってオムを許した。あの汚れではバッグの中身にもいくらか侵食していたように思えるが、バッグを洗濯するだけで許してくれたのは優しいとしか言いようがない。あるいはオムの誠意が通じたのだろうか。

「おう、出てきたな」「シャバの空気はどうだ?」「一回くらい打てそうだけどやるか?もう灰皿落とすなよ」おれたちも温かく迎え入れるが、すでにオムは意気消沈。

「はぁ・・・もうメンタルボロボロぉ・・・」ヤツは肩を落としながらそう言い、結局朝まで打たずに出張クリーニングを終えた。


 それ以来、深夜の池袋ZOOでは、トイレからすすり泣く男の声が聞こえることがあるという。

 

このノートがあなたにとって有意義なものであったらとても幸いです。