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SNSで書くことが辛くなったら ― 代弁者という


あいみょんは、代弁して歌ってるんだという人がいた。

わたしは、あいみょんにぜんぜん関心無かった。はやり歌だね、ぐらいの冷たさしか無かった。

が、ピンと来た。

さいきん、代弁という言葉がやたらと目に飛び込んでくる。

亡くなった八代亜紀も言っていた。

気になるものだから何べんか記事に書き込んではじぶんに覚えさせていた。

「代弁者だという自覚や覚悟があるからここまで歌ってこられたのです。

自分のことや自分のエゴを歌おうとしたら、多分ここまで歌ってこられなかったでしょうね」。

あいみょんの歌をはじめてちゃんと聞いてみた。

いえ、べつにあいみょんラブ論ではないんです。冷たい男ですから。



1.ブログって辛い時があります


こう思うんだ!とわたしはブログで言いたい。他者を代弁するなんて、裏方すぎて思いつきもしなかった。

でも。。時々、わたしは他者比較をして書けなくなっては落ち込む。

それがどんなにバカげたことで、どんなに情けないことだと分かっていても気が付くと比較坂を転げてる。

なんとか、ならんかなぁ・・と我が身のおバカさ加減が切実だ。


わたしは、主体感満載な男。エゴが満ち満ちてる。

「オレ」が1stに立つと「みんな」は2ndに落ち、わたしからみんなが見えなくなる。

そのくせ、エゴはみんなの反応の無さを気にする。

やっぱりわたしは、主客が転倒しているんだろう。

「代弁者」という言葉はじぶんを2ndに置く構えです。ああ、、でも、かなり地味過ぎる・。


いや、よくよく考えてみると代弁とはかなりアクティブだ。

たとえば、児童虐待や親の不在とかで、施設などで暮らす子どもたちがいる。

彼らの意思を尊重し、保障するための行動を代わってとらないといけない状況が来る。

権利擁護者という役割を誰かがしなければならないのなら、よしっ!と人はtakeする。

素敵だ!アクティブ以外の何物でも無い。


人は論理では行動できない。想いという感情を燃料にして駆動されて行く。

書き手も読み手も、想いを持つからそれがこの世界に反映される。

よし書こう!とし、ああ、イイネ!とぽちっと押す。

想いが大きいほど、世界に反映される。

代弁なら、大勢に触れ得る。

そんな大げさでなくともよくて、とにかくわたしはこの苦しみ津波の無限地獄から卒業したいっ。



2.あいみょん、もしくは代弁者


成り行き上、あいみょんの歌が気になってしかたない。初めてちゃんと聴いてみた。

あいみょんは、みんなの想いをペラペラと代読してるわけじゃなかった。

わたしが代弁者よっ!なんて言ってない。

彼女の『マリーゴールド』に対してこんな書き込みがあった。

「64歳のジジィです、この曲にぶつかって初めてフルで聴いたけど涙が出ました、

何か、こう、フォーク、フュージョンの風が私を包んで去って行きました。ありがとう。」

あいみょんはフォーク、フュージョンの風は知らないだろうが、ジジィは泣いたという。

64歳になっても人というものに変わらず流れる苦痛を、彼女の想い込めたメロディが癒したんだろう。

「あいみょんの声、そして歌詞には優しさと温かさが有るので大好きです」

みんな、生きるのがしんどいのだ。

みんなの辛さを1つのビームに委ね、あいみょんは空に解き放つ。

みんなは、干天の空を見上げた。

脱力感と情熱的な感覚、既に知っていたような馴染みのメロディが吹く。

彼女は代弁し空を潤した。

優しいのなら、人たちの苦しみに彼女のアンテナが一層向かってしまう。

彼女の歌のリズム、歌詞、歌唱が優れた点だと目が行きそうになるけど、ほんとは彼女のアンテナの凄さだろう。

仲間の一翼を担いたいという生き様、それが彼女のプライドだと思った。


YouTubeの視聴数は、現在、3.2億回だった。

ブログの閲覧数がとか、誰にも読んでもらえないとかいうわたしなんか、アッサリ吹き飛ばされた。

こんな書き込みまであった。

「この前、公園にいた子供がママあの花なんて言うのと聞いたら、母親があれはあいみょんだよと答えていたことに感心しました。」

いや、そんなに世界を変えなくてもいいのです・・わたし。

わたしは、ただあまりに人気の無いおのれの記事にちょっと不遜にも気に入らかなっただけなのです。

その割に他者にはあんまり関心を向けていなかったのですが・・。

かなり恥ずかしいじぶんが浮かび上がった。



3.誰のための発信か


たしかに、もしわたしが誰かの代弁者と成れたなら、きっとわたしはもう揺れない。

意見や権利をうまく伝えることのできない者たちに代わって発信する。

じぶんがうまいとか、すごいとかはどうでもよくって、じぶんに課せた役割を全うしようとする。

代弁者になろうとすると、自分の思い込みに挑戦し、新しい選択肢を見つけ、どこに上手くいかない可能性があるのかを理解して行く。

人の批判に対して、代弁者は仲間を養護はすれど自身への攻撃は別に気にしないでしょう。

身を2ndに落とし、1stの人たちを励ます。


思い浮かんだのは、マザー・テレサでした。

修道女たちの参加が少ないからといって、彼女は活動は辞めなかったでしょう。

そもそも、他力なんか期待してなかった。

自分が修道会組織から離れて、「死を待つ人々の家」をひとり始めたのですから。

後にいろんな名誉を受賞しても喜ばなかった。

アメリカでの公演に呼ばれた際、かかるであろう飛行機代とホテル代を「家」に寄付してくださいと主催者に頼んだ。

キラキラした公演なんかどうでもよかった。そんな無駄な金を使う余裕があるのなら、ぜひ寄付をお願いします、と言った。

彼女の持ち物はと言えば、聖書と洗い替えのためのサリー2枚と洗濯のためのバケツ1つが私物だった。


マザーは、イエスと取り交わしただけなのです。

この世で一番辛いのは孤独ですから、彼女は路傍に捨てられた孤独者たちを家まで引っ張って行き体を洗った。食べ物を差し出した。

みんなはひどく泣くんですね。ああ、、こんな捨てられ汚い自分を気にかけてくれる者がいたと。

彼女はイエスの代弁者でしかなかった。そして、驚くことに、マザーは苦しむ者たちにイエス自身を見ていた。


代弁者とは、強力な志を持つ者となる。

たから、「提唱者」ではつまらない。

自己を超えた地平で叫ばないと、ただのエゴ野郎でつまらない。

わたしたちは、誰のための発信をしているんだろう?



4.あなたを待っている


SNSでは、個人的な発信が多いので代弁的なメッセージをあまり見かけません。

ほとんどの人は、こういう経験しましたよ、こんなことを想った、こうあるべきではないか、教えて差し上げます、みたいなパーソナルな範囲です。

わたしの書く内容も、経験を通じて考えた個人的な範囲に終始している。

ブログでは、そんなのは存在しない?

いいえ、代弁していても、代弁とは気が付かないだけかもしれない。


書き手は、読み手を代弁することがある。

きっと「こう思ってる人、いるんじゃないかな」と思って書いている。手を差し伸べる。

こちらが読んで応援したくなる記事は、実は、先に書き手が読むであろう読者をあらかじめ応援しているからだ。


きっとマザーぐらいでしょう、発信した記事を気にしないのは。(もし、生きていたら)

マザー以外の全員は、自分の書く内容の出来と受け手の反応が気にかかると思う。

でも、自分自身を1歩離す時、わたしたちはようやく世界に繋がれる。

辛い人の代弁を密かに担い、精いっぱい出来る範囲で書いたなら、どんな内容でもどんな反応でも気にならない。

代弁の深さが、自我を離せているかの指標となるでしょう。


書く時、誰に向けてメッセージするのかを明確にイメージしなさいというアドバイスは、これを言っていたのです。

想いが絞られ強い光となって伝播する。

そういう世界が待っているし、また、そこにわたしも居たい。

ああ、、冷たい男は、そんなふうに熱く想ったのです。


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