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寝れない時の暇の扱い


寝れない時、いらいらして来ました。

本当に困ることってそれほど無いのですが、これはあなたも上位にランキングするでしょう。

いい話があります。

年取ると、割とすぐに寝れます。そこは大丈夫っ、安心してください。

ただし、早くに目が醒め、寝たいのにもう寝れなくはなるのですが。

年寄りは早起きなんじゃなくて、ほんとはもっと寝たいのにもう寝れなくなるのだと最近気が付いた。



1.起きてからの意外


とても小さな頃、『魔法使いサリー』というマンガをテレビで見てた。(昭和過ぎてきっと誰も知らない)

魔法の国から人間界へやってきた少女・サリーちゃんのお話でした。

弟のカブも姉御みたいなよしこちゃんと三つ子も覚えてる。サリーちゃんのパパも。(画像をUpしました。右のお方。魔法国の王様)

残念です。どんな話だったかが思い出せず語れない。熱心に見てたのに。


わたしは、とても小さな頃から無駄に硬く多い毛の人だった。昔、クマだった。

寝て起きると髪の毛が激しく変身している。寝相も悪かった。

うっかりそのまま学校や会社に行くと、必ず誰かがこの内向型に笑いかけた。あははと純粋に笑って来る。

朝、顔を洗う。

顔が濡れることを好まないけど、いちおう洗ったフリをする。ネコだったのかも。

顔をあげると、カガミに髪がピンと立った姿が写ってる。

じぶんで見ても、可笑しい。

そんなとこ気張ってどうするん、俺!みたいなつっこみを入れたくなる。

そのたびサリーちゃんのパパを思い出す。

何十年経ってもあなたを忘れられないわ、みたいなことになっちゃってる。

いえ、わたし、そんな、お父さんにゾッコンだったずないんですほろほろ。

可笑しみをじぶんで認めると、全身が緩む。

緩む時、わたしに主語はない。意図した者がいない。



2.夜中に目が醒め寝れなくなる


かのじょに、朝早すぎる時間に目が醒めたらどうしてる?と聞くと、諦めてネットでドラマみてるわという。

魔法が使えるサリーちゃんは、耳にイヤフォーンして見てた。


今朝も、まだ日が登らない時間に目が覚めました。

カガミの前に出向くにはまだ早すぎた。でも、もう目が醒めちゃった。

で、勝手ヨガを始めました。(布団の中で寝たままするストレッチみたいなものです。わたしが勝手にヨガだと言い張ってる。でも血圧はかなり良好な値に)


左手を上げ伸ばし、曲げ、ねじる。肩やわき腹、首が連動する。関節、筋肉を味わう。

むにゅーっと伸ばし、くくくーって曲げ、ぐぐぐぅーってねじるみたいな。

伸ばした先の掌をぱっと大きく広げ、指の1本、1本を伸ばしてみる。おお、、伸びるのびる。

動作中は息を薄く吐き続ける。

順に、肩、胸、腰、足。。

ゆっくりと、各部位が主語(主体)となって声を上げて行く。わたしは聞くだけ。

同時に、手があちこちを押しながら、部位の感じを確認してもいる。

それは、わたしが主語。わたしが確認している。

手が腰の骨盤の裏に触る時、そこははっきりと熱い。いつも、不思議。お前、何してるん?


外はまだ、真っ暗。

ただ行為が為され、そしてわたしは次々と感じて行く。

寝れない!っていう自我がいつの間にかいなくなり、わたしの底のリズムがチェンジする。

とても原始的なリズムだという気がする。

布団の中が大きな地球母さんの大地に代わり、満点の星に包まれるみたいに。

もう陽が登り、かのじょたちと「おはよー」の挨拶をしてしまったら、このわたしだけの小宇宙は消えてしまう。

10分か15分もすると、いつの間にか寝てしまう。寝る意図は無かったのに。ほろほろと寝入る。



3.奏でるリズムが違う


おおむかし、縄文の頃かも。

本もないし、携帯もネットもゲームも無かった。灯りも無い。ヨガも知らない。

いったい、人たちは目が醒めたらどうしていたんだろうと、よく思うんです。ここからは、常識的な妄想です。


キツネや狼やフクロウの遠く鳴く声にじっと耳を澄ましていた。

タヌキも、キツネも、キジも、サルもクマも遠慮なくあちこち動いてた。

今よりずーっと動物がいた。

平安、室町あたりの話か。かちかち山でも猿蟹合戦でも、動物がにんげんを取り巻いている。

つい最近の昭和初期まで、童謡にはひんぱんに動物が出てた。嫁ぐ日には、雨降りお月さんまで来た。


今、ヨアソビの歌聞いても、動物は一切出て来ません。

確かに魅了するリズムですが、「わたし」「オレ」「ぼく」が主語。そして、「きみ」「あなた」しか出て来ない。

トトロも隣にはいてくれず、動物はもう友達じゃない。

人間しか出て来ない物語。「わたし」という主語が切り立ってる。

なんだか異常かもしれない。


おおむかし、ひとは獣や鳥たちの声を寝ながら聞いていたでしょう。

うぉんうぉんうぉんーや、こんこんこぉーんと何かが闇に鳴く。

そうすると、うぉんうぉんうぉんーや、こんこんこぉーんとこころで返したはずだと確信します。

返すのは仲間への挨拶だから。

おお、、お前も寝れないのかい?いや、もう目が醒めたのかい?

ほろほろほろぉとか聞こえれば、ほろほろほろぉと返事した。と思う。


自然にくっついて生きていた時、すぐそばのお山や川に話し掛けたんだろうか?

シーンと静寂に包まれ、ぞわぞわって背中がするくらいに、厳かな気配を感じてたんだろうか?

風が吹いて山が唸る。雨が降って川が騒ぐ。

ああ、、アミニズム信仰ってきっとそんな夜中に目が醒めた時、存在の気配に気が付いたからだろう。

あなたも野外でキャンプしたことがあるかもしれない。

自然のおそろしいほどに無音で迫る暗闇の気配。かなり怖い。そりゃ、畏怖し信仰もしたくなる。

むかしの人たちが自我を立てていたとはとうてい思えない。



4.自我は立てれない


きっと、土に穴掘ったか、崖に穴開けたか、簡単に木を組み上げたお家だった。

隙間だらけだから、虫も入って来たし風も抜けて行った。

雨漏りはするし、自然と地続きに生活してた。

関係無い!と、他の生き物を自分の巣から分けることは不可能だったでしょう。

全ての生き物からまだ隔離されていなかった時。

花や木や虫や鳥やけものの息遣いといた時。

そんな時空で、オレがオレが、オレのオレの、とは到底思えないのです。

もちろん、「オレ」はいたけれど、この世のセンターとしての存在では無かったでしょう。

自我の立ち方は、他存在との分離度合い、孤独の度合いの指標になる。


すぐ隣で赤ん坊が、ばあさんが、妻がすやすやと寝息を立てていたでしょう。

赤ん坊は産まれるとすぐに多くが死んだし、50歳を超えるほどの長寿者は稀だった。

すごく早婚で、15歳が適齢期というのは必然だった。

いまより、うんと精神は早熟であり、子ども時代がすごく短かった。

学校に行くなんてない。出来るところから大人の補助と成って行った。

弟ばかり可愛がられて、とかいうひがみを起こす余裕も無かった。

老若男女、それぞれ責任と義務を当たり前として甘受していたと思う。


24時間食べ物の心配ばかりして生き、次に飲み水と着物の心配ばかりしているうちに、さっと命が尽きた。

寝たきりです、痴ほうですと生きる後期高齢者なんて、誰も見たこと無かった。

自我を発達させるには、それなりの生産性が実現されていないと余裕が無さ過ぎて難しい。



5.会社が無い


おおむかし、まわりの自然から頂くばかりだった。

見渡す限り会社なんて無い。思うに、それは驚異の風景です。

だから、仕事が辛い、会社なんて行きたくないという絶望感は存在しない。

上手く周りに合わせられないわ、不適合者のわたしなの・・・なんて無い。

偉く成りようも無いし、じぶんだけ蓄財しようにも、そもそもみんなカツカツの生活過ぎた。

助け合うしか手が無い世界でしょう。


孤立するなんてずーっと有り得なかったと思う。

自然とどう折り合いを付けて生かしていただくかしかない世界。

自然に怒ったって、太刀打ちできぬ、か弱い存在だと身に沁みていた。

天気次第、風任せ。けものが取れるか、雑穀を手に入れれるかは運しだい。

禍々(まがまが)しい流れ星が流れた年は、干天となり飢饉とはやり病が襲う。

平均寿命15歳と見積もられた世代。

もう、ほんとに主体感なんて育ちようも無かったでしょう。

自己肯定感が低くって辛いわ、なんていう「わたし」は存在しなかった。

そういう時空が、何十万年、何百万年と続いたと思うんです。


陽が昇れば起き出し、陽が沈めば寝る世界。

にんげんは、自然のリズムに合わせて、生きるしかなかった。

生きるに精いっぱいで、一日フルに体を動かし疲れて寝たでしょう。

どんなに生きても40,50歳。

だから、早く目が醒めちゃって困る、なんてこともたぶん無かったんじゃないか。

もちろん、もう大昔には戻れませんし、戻るなんて馬鹿げてる。

赤ん坊がむざむざと死ぬことほど、辛いことは無いのですから。

自我に悩める程に、わたしたちはようやく食べ物に困らない魔法を手にしたのです。


でも、不思議なのです。

勝手ヨガをすると、なぜこころが深く安堵するんだろう。

意図をほとんど持たずに、あちこちをただ確認するだけなのに。

主語が無くなった時、太古に刻まれたリズムが今も全身に蘇るんですか?

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