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他人軸で生きている、という


他者に傷つけられ辛い、他者の態度に一喜一憂する自分が情けない・・・。

わたしも、そういうじぶんにずいぶん悩まされて来ました。

自立した男に成りたかったのですが、無理ですほろほろ。



1.そのパンツ、みんな、はいてます


小学、中学、高校と、周囲との整合が取れませんでした。

わたしは、相手のせいにしてみたり、じぶんのせいにしてみたりを繰り返した。

ずいぶん生きてみたけど、非依存、あるいは自己の確立なんてわたしにはできなかったです。


でも、年を取るって良いこともあります。

「これじゃだめだ」というふうにもう思わなくなるのです。

依存も非確立も単なる事実で、良いも悪いも無い。

でこぼこした手持ちのコマでなんとか、残り少ない生をしのぐという感じです。

自身を受容するって、そういうことですかね。


胸が苦しくなる気づきには、痛みが伴います。

苦しむのは、それまで来ていた服がもう合わなくなったからで、引き返せないという信号でしょうか。

そんな痛みを受けないよう、世界から逃避できていたのは保護者がいたからです。

両親があなたを庇護してた。あなたは自由に泳いだ。

けど、水の中にいることが当たり前の魚にとって、水は意識できない。

大人になるために陸に上がって、ようやく辛くなる。

自分で稼ぎ、家族を持ってから、ようやく本格的に苦しむ人が多いです。


他人軸で生きている、という。依存してたと。

「依存」という言葉は扱いが難しいです。

それは、当たり前過ぎる言葉で、ズルイかもしれない。


この世に自分だけで食べて行ける人はひとりもいない。

寂しさや孤独に怯えない者は、あんまりいない。

依存せずに済む者が居ないのに、わざわざ「依存」という言葉がある。

孤独でない者なんか一人も居ないにも関わらず、「孤独」という。

お前、依存症だろっと言われると、みんな、オロオロしてしまう。

お前、孤独だろっと言われて、ドキッとせずに済む者もいない。

にんげんは、孤独であり、また、依存せずには生きれないという事実があるのに。

という事実を、何度かの失恋やら、絶望やら、苦しみの後にようやく受け入れるのでしょう。

たぶん、わたしたちの多くはそんな個人史を踏む。


みんな、不器用で、空気読めず、依存症で、孤独、なんです。

ほぼ全員、それを胸に置いていて、切ないから他者に手を差し伸べはじめる。

手を差し伸べるタイミングが、ずいぶん早い人は、

よっほど前世で辛さをがんばったのか、きっと親の庇護がゆるかった。


また、重い発達障害者ほどではないものの、みな大なり小なり脳に偏りを持っているという事実もあります。

みんな、ASDであり、ADHDです。わたしも、ASDであり、ADHDなのです。

全員が、グラディエーション描くスペクトラム帯のどこかにいる。程度の違いでしか無い。

精神科医は、クライアントを診断し、いかにも”病気”のように断定し、

何かのレッテルを貼ってしまうんだけど、その精神科医を含めてみんながおかしい。

機会があれば、試しに先生に聞いて見るといいです。あなたは?って。


わたしにとって、「依存」とか「孤独」という言葉は猛烈に卑怯なものです。

「人間です」ぐらいに、当たり前でなにも言っていないように聞えてしまう。

「自己確立」という言葉をまだ”事実”に出来きていない者を、脅してるだけです。

「他者依存」をしない者、「自己確立」した者なんて、この世にひとりもいない。と思う。

外から、他者がそう見えるだけです。


安村さんも言ってました。安心してください。

そのパンツ、みんな、はいてます。



2.ずっと待っていてくれるもの


あっ、この瞬間、知ってる。

時空が開いて、それがわたしに触れる時がある。

うっすらとしたその感触、感覚に触れて、わたしはどこか懐かしい。なんだか、嬉しい。

空気が冷たい中に春先がいる。

雨の冷たさが、ちょっと違って来る。春の香りが微かにしてくる。

桜の木肌さえ、ぴんくがかっている。

あっ、て思う。


そういう「あっ」ていう気づきがあなたを導いて行くでしょう。

素直な気づきは、やはり、自分との”対話”を進めてくれます。

その「あっ」ていう気づきって、解釈してない時に来る。

だから、自分自身と対話するに際して、あなたは解釈や批判をしないことが条件となります。


辛いと思っているでしょう。悔しいとか、情けないとか。不安もあるでしょう。

でも、自我が脚色してしまっていては、春の微かな訪れはキャッチできない。

「わたし」意識が強いと、既に「依存」も「自由」も手垢の付いた硬い概念でしかなくなる。

まったく、期待も反発もせず、素に聞かないとならないという、”対話”です。


あなたが小さな頃から、こころ朗らかになっていたシーンというのがあると思います。

失敗したらとか、この先のことなんてそこには絶無だったでしょう。

あなたのこころ励ますには、とにかくブツブツいつも言っている声から、すこしの間、離れます。

最初は、30秒でさえ無理でしょう。

いいえ、いいのです。とにかく、それを志向しているんですから。


みんな、「わたし」という存在を当たり前に前提にしてしまっていますが、実はそれがとんでもなく怪しいのです。

「わたし」が依存していると言うのだけれど、そもそも、その「わたし」自体を人は理解しようとしない。

こころ=わたし、であると、同一視してしまっていて、ただ流れて行く。

声がいう「わたし」の下に、もっとどっしりした「わたし」がいます。

今、いる。

ずっと、静かで安心できる「わたし」。

あなたが、無条件に心休まる「わたし」。

疲れ切った夕べに、湯船に入る。

ああ、、ってあなたはただ浸る。

あのひとが、待ってる。


辛くなるたびに、キューが入ります。

それを合図に、たとえ30秒でも良いので、頭の中の声を落とします。

何も言わせません。

落とさないと、そのどっしりした安心、ほんとのわたしには触れれない。

ウダウダ言う頭の中の声がストンと落ちます。

そこは、ひどく懐かしく、暖かい感覚です。


ずいぶん生きてみたけど、非依存、あるいは自己の確立なんてわたしにはできないと、最初の方に書きました。

わたしは、「わたし」と対話しました。

そして、実は、非依存、あるいは自己の確立なんて、「わたし」にはぜんぜん興味が無かった。

苦しくても悲しくても、いつも素直にそのじぶんを受け入れている。

はっきりとその存在をにぎってる。

そのことの方が、大切でした。

柔らかく暖かい「わたし」と居るのかが、最大の関心事となりました。


苦しさや悲しさは、いつも来ます。これからも来ます。

本来の自分は変えれませんし、その必要もないです。

自己の確立という硬い概念たちは、いつも脅しでしかなかった。

あなたは、素直に書かれていました。

言い過ぎていたら、ごめんなさい。

明日には桜が咲きそうです。ほろほろ。

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