見出し画像

この世の自己啓発本に文句を言うという大胆な話 ― 書くことが上達する?


悩みがあります。

こう書くべきだという話をいくら読んでも、わたしは変われなかった。

わたしゃ、ほんとにおバカでしょう。でも、わたし、勘違いもしていた。



1.はじめに


習うということは外の世界に対しては可能です。

指導書やトレーナーはとても有効。

テニスも縄飛びも武道もヨガも走るのも、がんばればうまくなった。

同時に、呼吸、姿勢、構えも、”うまい在り方”に変わって行った。

ほとんど動かない茶道だってそれらは変わる。

きっと、英語だってブレスや喉の開きは変わってる。


でも、書き方の話をいくら読んでも、半世紀たったわたしは身に付いていない。

たぶん、何万年読んでも芥川龍之介にはならない。


わたしたちは、何ていうか、エネルギーの塊でもある。

AIと違って生き物ですからね、エネルギーの出し入れ、配分、保ち方も大いに関係する。

読んで単に意識を変えようとするだけでは、うまくは書けないままでしょう。

意識が単独に存在するわけではなくて、エネルギー面からの影響も大きい。

意識層のエネルギーの在り方もカチリと変えないとならない。と勝手に思うんです。

そこを変え得るポイントに気づいた。と思う。



2.なぜ気に入らない


「これがポイントです」、「ここが大事です」と書いている方の文は、辛い。

わたしは、心に留め置こう!と念じるけど、どこかに漏れて行く。

たとえば、

・すべての文章は書き出しで決まる

・慣用語になっているような形容(名詞)を使わない

・読む人の身になって

(遠藤周作。「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい」)


こう要約されると、ごもっとも。でも、ご忠告は使えない。

たぶん、そんな忠告はわたしだって分かってた。潜在的には。

こんな”指南”もある。

・生きるとは文章を書くことです

・世界を変えるのは、問いだ

・歩くこと。見ること。なんでもいい。小さなことでもいい。なにか書いてみる。生きてみることだ。

(近藤康太郎、「三行で撃つ」)


引用した文たちはもっともだし、プロの方たちは分かり易く面白く読ませてくれる。

でも、どこかに圧迫感も感じる。

おそらく、どれもはじめて知ったことではないからです。

そう書けないリアルな「わたし」はどうしてくれるんだ?と、居直りたくなる。



3.問題は、そこじゃない


分かっていても、そうは書けない「わたし」という実体(内容)が在る。

わたしのリアルに触れずに、形式だけ整えようとするのは、不誠実でしょう。

だから、「バズル書き方」とか「わたしはこれでフォロワー2万人に」とかいう記事を見るたびに、わたしはへこむ。

もちろん、そう言うあなたにそれは真実だったでしょう。

でも、そういう事実(実績)があるから、この主張は正当であるという一般化がつらい。

こうすれば、幸せになれる、こうすれば成績があがる、こうすれば出世できる。。。

書き手も、正しいことを言えば、読み手へ良い影響が及ぼせると無意識に思ってる。

ほんと?

読んだみんなは、とっくにしあわせに成ってたはずなのに。

なぜ、実行できないのか、の方が重要なんじゃないか。

このわたしという身はその形式を消化できない。


読み手は奮起する。よしっ!。

でも、建設中のビルの8階あたりから、設計図と工法をガラリ変えようというぐらいに無理な話かもしれない。

もう基礎は打ち込まれてた。

基礎にそぐわないウワモノは、もう手遅れで作れない。

バズリましたという書き手は、一般性や普遍性を装うのだけれど、どこまでもそれは個別な事象なのです。

あなたは、そういう経験を辿った。で、わたしは?

たぶん、エネルギー体としてのわたしの基礎まで変化させる何かが必要なのです。

一流の作家や画家、覚者ほど自分の過去を語りたがらないのは、賢明さの証でしょう。

教えても何も変わらない。むしろ、その道が絶対と信奉されちゃう弊害しかない。

いいえ、あなたとわたしは違うのです。



4.啓発本の意味するところ


出版不況にも関わらず、自己啓発本は依然として人気があるそうです。

カーネギーの『人を動かす』は世界中で1000万人以上に読み継がれています。

うんと昔、わたしも読みました。ほんとに良いこと、書いてあった。

でも、あれ読んでボクはこんなに立派になりましたって人、見たことが無い。


宗教界から文句でるとおもいますが、大胆に言えば「聖書」もそうでしょう。

アメリカ人の8、9割がキリスト教の信者だそうです。元花札大統領も西鷲国で売り出したそうな。

イエスをお慕い申すには良き導きではある。

が、聖書読んでも行動の変容は難しいでしょう。

他人の書いたものはほとんど役に立たない。


カーネギーを読んだわたしも1000万人たちも、みな軟弱なおバカだったのか?

いいえ、実行できなかったのは、やる気や意思の問題ではない。

みんな、そうは出来ない理由を抱えている。

つまり、カーネギーには真実ではあったが、あなたのそれにはならないということです。

彼の言葉に行動のための普遍性は無いと言わざるを得ない。


かなりスピリチュアル系の本も読みましたが、同じことでした。

良い話では、じぶんは変われない。

覚者の話に感動しても、99%の人は、地道な呼吸訓練や瞑想なんてしないのです。娯楽に落ちてしまう。

エネルギーレベルまで変えずに、意識だけでお手軽にメタモルフォ―ゼしたいでしょう。


ということで、わたしはじぶんの偏り、個性、制約を考えてみることになる。

悩みはあるのだけれど、誰も答えをわたしには与えてはくれない。

つい、答えがあるんじゃないかと、頼りたくなんだけど、もう基礎工事は終わってる・・。

ううーん、どうしたら、がらりエネルギーの組み方が変わるんだろう?



5.読み継がれる物語


こころは何層にもなっていて、それぞれ役割が違う。

こころのずっと下には、先祖たちが埋め込んだ物語があるでしょう。

ほとんど、わたしたちは意識できない。

なぜ、冒険話に浮き浮きするんだろ?

なぜ、長い屈辱の後に晴らすのを喜ぶんだろ?

かぐや姫もカチカチ山も、わたしたちにビルトインされている記憶に触れていると思う。


ずっと下層と表層との間には、「情緒」層があるでしょう。

もう一度、読みたいと思う本には情緒がある、といった人がいた。

わたしが何度もそのことを書くには訳がある。

たしかに、情緒層でやり取りされる話は、単なる知識や情報ではない。

わたしのこころのエネルギー配置というようなものが変わり、そこの中間層に刻まれてしまう。

淡々とした記述であった龍之介の『蜜柑』。

淡々としたフランクルの『夜と霧』。

死ぬまで忘れられないし、何度も読みたい。

悲しいとか怒ってると一切出て来ない描写なのに、もうれつに情緒層が喚起される。

わたしのエネルギーの振るえ方まで変えてしまう。

ただし、感情層では激し過ぎて、文章作成といった知的な作業の変容には向かないでしょう。


わたしたちを知的面で駆動(変容)するのは、情緒や情といった淡いエモーショナルな部分でしょう。

わたしたちは、生きている感情動物です。

それが、わたしたちというエネルギー体の秘密でしょう。

なぜ、物語という形式がすたれないのか。

なぜナラティブ(語り)をわたしが志向するのか。

それは、情報ばかりが打ち寄せる一人舞台海岸で、孤立するじぶんへの抵抗なのかもしれない。



P.S.


自己啓発本にケンカ、売ってないです。恨みもない。

スピ系の本もたいへん勉強になりました。

が、行動は変わらず、明らかに娯楽で終わった。

わたしは、情報蓄積のために日々、読み書きしたいのではない。

娯楽で和ませるには、残り時間もあまり無い。


読むという行為の理想は、情緒(情)が起こり、なにかがチェンジするということ。

このシーケンスの目的は、「自己の発見」にあると思います。

その発見は、ふだん忘れている懐かしさや切なさだったりする。

情緒は、文章の大事な構成要素でしょう。

変容には、脳みそだけでなく、胸と腹が反応しないといけないから。

龍之介は、若くしてこれを習得してた。

彼の短編小説、『蜜柑』は典型です。

青空文庫で読めます。最後の2行だけ情緒を帯びて、しびれます。

わたしもこう書きたいと強く願う。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43017_17431.html


と、情緒がちっとも無い文章で、じぶんが情緒を訴えているのに実は気が付いています。

許してくださいほろほろ。

最後だけ、情緒かよ!って突っ込まないでください、も一度ほろほろ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?