何故か、必ず自分がそうなってしまうワケ ― タイプ論
ユングを思い出した。わたしは、一時期、夢中で彼を読んだ。
ユングの著作の中でも『タイプ論』はひときわ高くそびえる高峰なんだとか。
すぐにその筋の権威を引きずり出すのはとても卑怯なんだけれど、書かせてくださいほろほろ。
1.島を出る時に
同僚に15歳ぐらい年下のT男がいた。
イケメンじゃない。がっしりとした背の低い、イノシシを思わせる人。
頭は良い。が、とにかく問題児。彼はサラリーマンというより野心家だった。
ある時、T男がこんな話をわたしにしてくれた。
「僕は瀬戸内海の小さな閉鎖的な島に生まれたんです。
兄がいてくれて、なんとか封建的な雰囲気の中を生き延びたんです。
勉強は出来たけど運動はうまくない。からかわれてばかりで悔しかった。
僕はようやく島を出ることができた。
その後、僕は環境を移るたびに、なにもかも壊して出て行くんです。
激しい怒りで特に人との信頼関係をわざわざ壊す。
なぜだか自分でもまったく分からない。必ず自分がそうなってしまうんです。」
まさか、その怒りをわたし自身が目撃するとは思ってもみなかった。
彼は、ある新興宗教に入信し、教祖を絶対視して行った。周囲に熱心に勧誘しはじめた。
そして会社が傾き始めた時期だった。彼は退職し念願の自営業に進むことにした。
あれほど嫌ってた島に近い街に住むつもりだという。
もう退職するという前日の夕方、ちょっとした会議を彼と何人かとでした。
彼は突然口調が横柄になりお前らバカとか言い出した。わたしのことも目下扱いし始めた。
わたしはもういいっ!と会議を解散した。
ああ、、これが彼の言っていた島を出る時、だったんだなと思い当たった。
憤怒という漢字が相応しい形相だった。
飛び立つ鳥が、跡を濁さないどころかわざわざ関係を破壊して出て行った。
ただし、次がいつも確定し安心できる状況下で。
彼は深い所の何かに動かされていた。
いや、わたしにも”切れる”ということが始終ある。切れるじぶんに毎回、驚く。
彼もわたしも、心当たりが無い。意識できなかった。
2.ざっと
今日は、学識ご披露会みたいで恐縮します。
ユングは学者でもあるけど精神科医でもあった。
自分も崩壊する瀬戸際まで追い詰められた経験があった。
患者たちのいろんな苦しみをみて、性格要素と関係があると気づきます。
人にはそれぞれ外向型・内向型とがあるんだ。
さらにそこから派生する4つの型(感覚型・感情型・直観型・思考型)があると。
人は、8つの機能タイプのいずれかへと偏り、それぞれの苦悩を抱える。
内向か外向かの態度が異なるのは、リビドー(心的エネルギー)の向う方向による違いであるという。
内向にパワーを向かいがちな人は、外向面にエネルギーをあまり費やせない。外向の人は、逆に。
どこかに心のエネルギーが偏れば、他の箇所では不足する。
このような一面的なタイプへの偏りが、コンプレックス(個人的無意識)を発生させると考えた。
このエネルギーの減少が、精神病・うつ病を発生させていることを発見したのがユングでした。
世間でもてはやされる外向型でさえも病因となりうるのだと。
「タイプとは発達の偏り」であると結論します。
宗教に没入していったT男は、仏のフレームで自分を是正しようとしました。
偉大なる教祖や仏というよりも、なにかの絶対真理でおのれを是正したかったでしょう。
自分が納得できるなら、アラーでもイエスでもよかったと思う。
内向型、思考型の彼。
エネルギー不足で荒れ地となっていたであろう外向面や感情面を耕すということは、神仏では手が出せない。
ひとりひとりがかけがえのない存在として、おのれのホールネスを先ず受容しないといけないのです。
神仏がいるかどうかはその後、考えれば良いのです。
苦しみと混乱は、無意識層にある複合体が生み出す。
混乱した者が、真理だと断言する者の言葉を解釈しても仕方無いのです。
混乱は、次の混乱を呼ぶだけですから。
3.劣等ということ
性格分析では、人が自分自身をどう意識しているのかという観点が大事なわけです。
「優越機能が最も意識化され、意識の制御や意識的な意図に従っているのに対して、
未分化な(劣等)機能はどれもあまり意識的でなく、
その一部は無意識的であり、意識の自由になることがほとんどない。
優越機能がつねに意識的な人格を表しその意図・その意志・その行為・を反映するのに対して、
未分化な機能はその人にとって降ってわいたように現れるのである」
確かに、T男もわたしも、怒りが”降ってわいたように”現れた。
「外向」が「内向」よりも機能優越しているタイプは、「外向タイプ」です。
「外向」が「内向」よりも意識化され、「内向」の働きは「未分化」になっていると捉えます。
T男もわたしも、暴走する部分を意識できません。未分化な「劣等機能」がある。
なお、分化するとは、展開するということです。種が目を出し、葉を出し、大きく成り、実を結ぶ。種が分化してゆく。
ユングはこう理解したと言っています。
「私は劣等機能を分化過程において取り残された機能と理解する。
すなわち経験によると、自らの心的機能を同時にすべて発達させることは、
すべての条件が整うものではないので、ほとんど不可能である。
人間は生まれつき最も得意とする機能、あるいは自らが社会的に成功するために最も有効な手段となるような機能を、
まっさきに一番よく発達させることを余儀なくさせられる」。
ああ、、T男は閉鎖的で理不尽な、低知能な同級生にいじめられ悔しかったでしょう。
その圧迫にじっと耐えようやく自分をいじめた島を出た。
二度とこんなところには来るもんかと、ちゃぶ台ひっくり返して決別宣言した。
彼は、内向的な、論理的な面を優位機能となるよう成長したから、勉強もでき、島を脱出できた。
しかし、そこに注力すればするほど、外向面、感情面が劣位していった。
精神病やうつ病というほどではないが、そこに爆発のタネを持ったでしょう。
4.コンプレックスという劣等
内向-外向の態度については、リビドー(心的エネルギー)の向い方向による違いであるというのです。
わたしは、いつもこんなふうに捉えています。
わたしは、「内向」が「外向」よりも意識化されていて、繊細あるいは敏感に内面が見やすい。
男子たちが話したがる、野球や車のことなんかてんで関心は無い。
じぶんの想いや考えはどうなんだろうかといつも意識している。
流行には興味なくて、旅行とか山や川、街の探索もきわめて燃えない。
また、HSPというように、周囲や他者の感情表現にも過敏です。
会話はシンプルな1対1で深く話し合えることを好みます。
チームに溶け込む、目上の者を敬い、うまくやる、なんてことにわたしは興味があまりない。
興味が無いとわたしは言いましたが、興味を持つに至るほどの準備が出来ていないのです。
だから、師弟関係になったことがないし、年上を敬うなんて出来ない。社内の出世レースも芳しくない。
世渡りヘタともいえるけど、そんなところに真理は無いと思ってるフシがある。
理系なのに、心理学、宗教、哲学が大好き。進化論、医学、生物、脳、遺伝は精神を理解するという文脈で好き。。
内向的な人とは、人前で話す際、モジモジと内股になる、というわけではないのです。
必要ならばりばりと話したり主張したりもする。
でも、意識が内に向かう分、外への関心、外との整合は弱いと言える。
ユングに言わせれば、わたしは外界との多様なインターフェースをエネルギー不足でうまく作れていない。
その無意識の複合体が、ときどきわたしやT男を駆動し怒り破壊させたがるのでしょう。
ちなみに、お義母さんは、MBTI分析でみると外向的です。
家長である父親を心底慕って育ちました。権威ではなかった母親の話はほとんどしてくれない。
目上の者、伝統や文化を重んじます。姑に尽くし、夫を立てて来た。
医者や教師が言ったことをきちんと守る。
わたしからすると、外の権威に無批判的すぎるといいたいところ。
近所付き合いもまめにする。思いやりがあり、近所の人たちが頻繁にお茶を飲みに寄る。
わたしが世事に未分化であるように、お義母さんは自身の内的世界に未分化でしょう。
お義母さんも喜怒哀楽するのだけれど、自身を多彩に表現しようとはしません。
どういうことが起こった、誰が何と言ったというような現象論に終始する。
わたしは、外の権威を嫌い、必要なら神を殺すし体制も破壊するでしょう。
でも、お義母さんは既成の体制を完全に守護しようとする。
内面の処理がヘタで、怒りや悔しさは爆発させず抱えてしまう。
免疫疾患のリューマチになったのも偶然とは思えません。
全員、わたしのような内向型だと、外の世界の統制は難しい。政治、経済が混乱し易い。
全員、お義母さんのような安定と保守だと、ずーっと徳川時代が続いちゃう。
それぞれ遺伝と環境に沿って、無意識に得意な所を伸ばして来た結果でしかない。
それぞれは反対極に劣等機能を抱えてしまうというのです。
5.文章を書くときのタイプ
長々と、話をしてきたのですが、きっと、ブログにもタイプが反映されていると言いたい。
内向型は、あきらかに自分の内面を語りたがる。思ったことや考えを言いたがる。
外向型は、旅や食べ物や映画のこと、推しのこと、出来事を言いたがる。
文章書きなんていう内的に面倒なことをするのですから、ブログでは内向型がたぶん多いのだと思います。
でも、友だち探したり、仕事さがしたり、教えたりする外向型の人も大量に流れ込んでいる。
両者ともに、抱えている潜在的なコンプレックスについて明示的に語ることはありません。
内向型の人は、無闇とフォロワーを増やしても仕方無いでしょう。
人は共通の地面の上でしか分かり合えない。
内向型だといっても、思考タイプと感情タイプではまたぜんぜん関心が変わって来る。
わたしは、たぶん、内向型、感情型です。そこがベースになる。
外向面、思考面にややこしいコンプレックスを抱えているでしょう。
わたしは、同じ内向型、感情型の人には無条件に親和性を持ちます。
でも、外向的、論理的な人に反発もしますが、実は憧れも持つのです。
やたらと理屈っぽく書いている理由は、じつはわたしは感情型だからなのです。
わたしは、未分化であるじぶんの思考面を薄々気づいているでしょう。
要は、同じタイプの種族に語り掛ける必要がある。
語り方、トーン、リズムはそれぞれのタイプが好む傾向がある。と思う。
そして、同じく抱えがちな苦しみと喜びを共有できたらいいなと思います。
書きながら、もう13年。
わたしは、書き出す中にじぶんを知りたいのだと思います。強烈に。
P.S.
わたしたちの時代になっても、ユングの性格分析の説明は現象論に留まっています。
なので、なんとなく胡散臭いし正確とは言い難い。
いえ、わたしもはやりのMBTI分析は興味深く、INFJという分析結果に納得しました。
当たり障りが無くポジティブな表現でしたので、心地よく感じました。
でも、AMBI分析は、わたしという存在を知るためのほんの導入部でしかないのです。
分析をすっと納得したのは、既に自分が思っていたことがきちんと整理されていたからです。
今まで薄々気が付いていて、既にそれなりに頑張って来たのです。
それらはお墨付きを得て、より成長するでしょう。
でも、問題は、じぶんがどういう人かというよりも、手つかずに放置された無意識な劣位部分は何かとなります。
世界に対してわたしを制限している弱い面は何?
わたしは解放され得るのか?
あの結果をネガポジ反転して読み直す必要があるのです。
ただし、意識層でいくら頑張ってみても、コンプレックスは手つかずのままとなります。
やがて、わたしというホールネスをどうしても掴まねばならないという危機の時が来る。
ユングは無意識という深層心理に勇気を持って手を突っ込んで行ったのです。
性格分析は、自分自身への臨床的な適用にこそ真価を持つでしょう。
深層心理だからといって、偏りを是正することが不可能なわけでもないのです。
少なくとも、劣位を知るだけで救われるということもあるのです。
ユングという先人が確かに生き実践したということを支えに。