距離を置きましょう

「距離を置きましょう」

真剣な表情で彼女が言う。言葉とは裏腹に熱の籠もった眼差しだ。そしてあまりにも急だ。一緒にいれば距離が必要になることも確かにあるけれど、彼女は「今そういう気分じゃない」など謎の供述で距離を取るタイプだ。こんなかしこまった言葉で、距離を置こうと言うのは、まるで誰かから借りてきた言葉のように白々しく響く。

「いきなりどうした」
「えーっと、1メートル以上の距離が必要です」
「スマホ片手に何言ってんだよ」
「ウイルス対策」
「他人をウイルス呼ばわりするな」

巷で流行中のウイルスについて、彼女も彼女なりに、思うところがあったらしい。かといって、外から帰ってきた人間をウイルス呼ばわりするのは勘弁してほしい。人間は人間である。無症状なだけでウイルスを持っている可能性はあるけれども、そうだとしても僕がウイルスそのものであるかのような言い方はどうかと思う。

「そのスマホとかの方が雑菌まみれだぞ」
「えっマジ?」
「手が一番色んなところに触れて汚いんだよ。寄越せ、アルコールスプレーするから」
「ありがたき幸せ」
「おい、1メートル以上の距離を取るんだろ、スマホだけ寄越せ」
「あっ、忘れてた!」

何でもかんでも鵜呑みにしてしまうから、新しい情報が入ったらそっちに意識が向いて、どんどん忘れてしまう。彼女の頭の中は先入先だし方式だ。いつも新鮮なことを言う。

しかし、非常時には全く使い物にならない。

「……どうしたらいいんだろう」
「何が?」
「このウイルスは、まだ収まる見通しが立たないんでしょう?」
「そうだね」
「1メートルは遠すぎるよ。握手もキスもハグもセックスもできずに、どうやって友情や愛情を表現しろって言うの」
「まあ……」

全く使い物にならないけれども、最善の選択肢を選べるように、彼女なりに考えているのだ。だから、茶化しきれない。僕は、人混みを避けようとは思っていたけれど、彼女を避けようとは思わなかった。アホみたいな真剣さから導かれた、恐らくは僕と彼女を守るための決断は、少々現実離れしている。

「好きだよ」
「えっ」
「言葉にすればいいんじゃない?」
「あっ、そっか」
「そうだよ」
「うわー、ほっとした!本当にどうしようかと思った!」
「よかったね」
「友達にいつもありがとうってLINEしてくるね」
「どうぞお構いなく」

僕の「好きだよ」は世紀稀に見るスルーを決められた。そんなに普段から言うタイプではないんだけどな。そういえば彼女の友達は、突然「いつもありがとう」ってLINEが来たら、どう思うんだろう。世間の平均を取ったら結構びっくりする人の方が多いと思うのだけれど、彼女と友達でいるような人なら、柔らかく笑って受け止めるのだろうか。

「あっ、忘れてた!」
「何?」
「好きだよ」
「忘れるなよ」
「ごめんごめん、拗ねないで」
「違う。スマホの消毒」
「あっ、忘れてた!!」
「ほらな」

OLとバリキャリとオタクの中間地点にいます。 「忘れてみたい夜だから」という番組をRadiotalkとPodcastでお届けしています。 【Radiotalk】 radiotalk.jp/program/31133