竹島/独島|日韓の論点整理

※まずこの記事は、竹島/独島がいずれかの国の領土と結論づけるものではありません。そこをご理解くださる方だけお読み下さい。
便宜上、竹島/独島=リアンクール岩礁について「竹島」と表記します。

【竹島の現在】
少なくとも戦前は日本人漁民が竹島周辺で漁業に従事していましたが、朝鮮戦争中の1952年に韓国は「李承晩ライン」を(一方的に)設定し、竹島を韓国の領土と主張しました。その前から一部の民兵組織が竹島に上陸し、日本人漁民を拿捕して一部殺害したことが知られています。1953年に韓国軍が竹島に上陸し、軍事支配を開始して今に至ります。

【論点①サンフランシスコ平和条約】
《日本の主張》
1951年の同条約で、竹島は日本が放棄した土地に含まれない。(=戦前通り、日本が本土として領有権を維持する。)

  • 同条約には日本が放棄すべき地域として「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定されている。

  • この部分の草案内容に対し、在アメリカ韓国大使はアメリカ国務長官宛に「独島」を明記するように書簡で要請したものの、アメリカ国務長官は拒否した。

  • 当時のアメリカ国務長官は書簡を通して「竹島は1905年以降は日本管轄下にある土地である」ため、「日本が放棄する土地には含まれない」という認識を示した。

  • 条約前の1951年、連合国最高司令官は覚書(SCAPIN)第2160号をもって竹島を米軍の爆撃訓練区域として指定していた。

《韓国の主張》
サンフランシスコ平和条約で竹島が直接明示されていないからといって、竹島が韓国の領土に含まれていないと見ることはできない。

  • サンフランシスコ平和条約は第二次世界大戦終結のため、連合国と日本の間で締結された条約であり、韓国は参加していない。

  • 条文にある「済州島、巨文島及び鬱陵島」は韓国の3千あまりの島嶼の例に過ぎない。

  • 終戦後、連合国最高司令官はSCAPIN第677号とSCAPIN第1033号を通じて日本の領域から「鬱陵島、リアンクール島(=竹島)と済州島は除外される」と規定した。

要するに、条約に竹島に関する明記がないことが話をややこしくさせています。
双方が「アメリカもうちの領土だと言ってる!」と主張してますが、いずれも根拠が書簡や覚書であるため決定力に欠ける印象です。
ただし少なくともサンフランシスコ平和条約締結時には、アメリカとしては竹島は日本の領土という認識だったことがうかがえます。

【論点②1905年の編入】
《日本の主張》
1905年 1 月、日本は閣議決定によって島を島根県に編入し「竹島」と命名した。

  • 島根県知事は、この閣議決定に基づき、竹島が管轄下となった旨を告示した。

  • 当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられた。

  • 島根県知事は、竹島が島根県の所管と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制とした。

《韓国の主張》
当時の大韓帝国政府は日本の自国領土編入を否認している。

  • 鬱島郡守の沈興澤が、鬱陵島を訪れた島根県の視察団から日本が竹島を自国領土に編入したということを聞き、翌日江原道の観察使と中央政府にこれを報告。

  • 報告文書内では「本郡所属の独島」と、竹島が鬱島郡の管轄である旨を示している。

  • 大韓帝国政府は指令第3号で日本による竹島の領土編入を否認

当時から揉めていたことが分かります。

〈近世の領有権と呼称〉
日本と朝鮮の両国が、近世で自国が領有権を確立したと主張。
竹島は当時「竹島」とは呼ばれず、日本は竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。
まぎらわしいので、ここでは松島の呼称は使わず、引き続き竹島/独島を竹島、鬱陵島を鬱陵島と呼びます。

左が鬱陵島、右が竹島

1618 年(または1625年説)、鳥取藩の大谷家と村川家は、幕府から鬱陵島※への渡海免許を受けた。これ以降、両家は交替で毎年鬱陵島に渡海し、 あわびの採取、あしかの捕獲、樹木の伐採等に従事した。(=幕府公認下での両家の漁業活動)
朝鮮政府は17世紀には鬱陵島への朝鮮人の渡航を禁止したが、17世紀末には「多数の朝鮮人」が鬱陵島で漁業活動を行っていた。

鬱陵島=竹島ではない。
が、竹島は島というより「岩」であるため、鬱陵島の属島とするのが双方の基本的な解釈(この曖昧さがまた認識の違いを生み出す)。

【論点③安龍福の事件】
《両国で認識が一致》
1692 年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が漁採に従事しているのに遭遇した。翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福と朴於屯の二人を日本に連れ帰った(韓国側解釈:連れ去った)

《韓国の主張》
朝鮮に戻った安龍福は、鬱陵島への渡海の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取調べを受けた。その際に安龍福は「日本に来た際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取った」と供述した。

《日本の主張》
当時は日本と朝鮮の間で竹島に関する交渉中だったので、幕府が書契を出すはずがなく、そのような事実はない

  • 安龍福の供述は国禁を犯した後に取調べを受けた際のものであり、信憑性が低い。

  • 韓国側の文献によれば、安龍福は 1696 年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいたと述べたが、当時、日本人の渡航は禁止されており(後述)、大谷・村川両家はいずれも同島に渡海しいなかったため、これも事実と反する。(=安龍福の供述は信憑性が低い)

【論点④竹島一件】
対馬藩から交渉決裂の報告を受けた幕府は、 1696年1月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離は朝鮮から近く伯耆からは遠い。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を日本領にした わけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定し鳥取藩に指示するとともに、朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じた。(=幕府による鬱陵島への日本人の渡航禁止

《日本の主張》
江戸幕府が渡海を禁じたのは、あくまで鬱陵島のみで、竹島への渡海は禁じていない。

《韓国の主張》

  • 江戸幕府は渡航禁止後の1699年、朝鮮朝廷との外交文書で鬱陵島が朝鮮領であることを認めた。

  • 竹島一件の後、朝鮮政府は官吏を鬱陵島に定期的に派遣した。

【論点④韓国の認知】
朝廷初期の記録である『世宗実録』の「地理志」(1454年)には、「于山」と「武陵」が朝鮮の江原道に属する島だと記録されている。

《韓国の主張》
于山=竹島、武陵=鬱陵島であるため、この記録は当時から朝鮮が竹島を領土と認識していた証拠である。

  • 記録内には「于山(独島)、武陵(鬱陵島)二つの島は互いに遠く離れておらず、天気の良い日には眺めることが出来る」と記述があるが、晴れた日に鬱陵島から肉眼で見える島は竹島だけである。

《日本の主張》
于山=竹島ではなく、実在しない島である。

  • 朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、 竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ鬱陵島を想起させるものである。

  • 『新増東国輿地勝覧』に添付された地図 には、鬱陵島と「于山島」が別個の 2 つの島として描かれているが、もし、韓国側が主張するよう に「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は 鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずである。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している。

【論点⑤新羅時代の支配事実】
これだけ古い話になるともうどうしようもないんですが。

《韓国の主張》
于山国の服属新羅の将軍、異斯夫が于山国を征伐したことによって、于山国(竹島を含む)は新羅の一部になった。

《日本の主張》
『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が 512 年に新羅に帰属したとの記述はあるが、「于山島」に関する記述はない。

以上の事実は主に日本の外務省HPと、韓国の外交部HPに拠ったものです。

このように近世以前の問題に関しては、そもそも呼称が曖昧であり、記録にも信憑性があったりなかったりなので、日韓がお互い都合の良い解釈をしています。
そもそも人が住めるような島ではないので、漁業活動に関する事実が争点になりますが、当時は両国民が周辺で漁業に従事し、ときに黙認し合い、ときに妥協し合って争い事を回避していたことが分かります。
また別の話になりますが、当時の対馬藩幕府朝鮮政府の両方に良い顔をし、両国の間をとりもつことによって利益を得、そのために外交文書を偽造したことも一度や二度ではないので、このような対馬藩の二枚舌外交も混乱の元になっているのではないかと推測します。

【そのほかの論点】
《国際司法裁判所への付託拒否問題》
よく根拠として言われる「日本は国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国が拒否した」という事実ですが、これは竹島が日本の領土である根拠としては薄いです。通常、実効支配している側がこのような提訴に応じることはありません。

《韓国は大韓帝国の承継国家か問題》
韓国は大韓帝国以前の政府と法的に断絶しているため、当時の領有権や領有事実は現在の韓国と連続性がないと主張する日本人もいますが、これは「継承国」という概念に関する非常に難しい問題です。

大韓民国政府は日本による韓国併合の法的効力を認めず、大韓帝国と大韓民国との間では法的断絶のない継続性があるという見解を持っている。「大韓民国が締結した多数国間条約の効力確認」に関する韓国外務部の説明資料によれば、大韓民国は大韓帝国と同一の国際法主体として、同じ国家の内部で国体、政体および国号が変更した場合であるという。また、韓国の制憲憲法はその前文において大韓民国が1919年に樹立したという。

韓国政府のこのような見解は、1919年以来韓国には国家の要素としての実効的政府が存在したことを前提にしているように思われる。その「政府」とは、中国上海でできた「臨時政府」にほかならない。しかし、臨時政府の成立の経緯、統治の実体、国際社会からの承認及び外交関係の実績等の点に照らしてみれば、それが国家の要素たる実効的政府であったかに関しては疑問が残る。その論理的帰結は、大韓帝国は国家として消滅し、旧大韓帝国の領土は日本の領土になり、その国民は日本国民になったこと、そして大韓民国は日本から独立した新生国ということになるだろう。にもかかわらず、韓国は大韓帝国と大韓民国とは法的に同一であるという態度を堅持しているし、国際社会においても条約の承継と関連して両者を法的には同一のものとして扱う事例も見られる。

近年のバルト3国の例でみるように、50年以上も他国の一部として併合されたと思われてきた国家も、国際社会によっていわゆる「復活した国家」として認められる場合もある。大韓帝国と大韓民国の国家的同一性を認めることが、国際社会の法的安定性を著しく害することなく、韓国の民族的・国民的名誉と自尊心を回復させ、外国による支配がもたらした不当な結果を是正する道と認められる場合には、韓国にも「復活した国家」としての地位が与えられる余地はあると思われる。

朴培根(2000、九州大学)
大韓民国臨時政府の国際法上の地位と韓国の国家的同一性《研究概要》より

まだここに書いていない細かい歴史的事実や双方の主張もあるのですが、全てを書ききることは不可能なので割愛します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?