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好きだったひとと、好きだった街の小さな部屋の話

好きだったひとのことを思い出すとき、その人の顔や匂いは記憶から薄れていってしまったとしても、その人と過ごした街の美しさみたいなものは鮮明に思い出すことができる。
過ごした時間っていうのは街とともに刻まれているんだろうか。

記憶に残るひとつめの街。
日の光が美しく差し込む神社がある街だった。その神社を通り抜けた先に好きだったひとの暮らしていたアパートがあり、わたしたちはよくそこで待ち合わせをした。

坂道の多い街で、その人に逢いに行くためにはのぼったり下ったりしなくてはならなかった。
神社めがけて、わたしはいつも小走りで坂道を駆け抜けていた。綺麗に整えられた涼しげな顔で会うよりも、わたしにとっては1分1秒でも早く会うことのほうが大切だったから。

あの小さなアパートのことを、わたしはよく覚えている。隣には小さなドーナツ屋さんがあったこと。夜に行くと自販機がてりてりと光っていたこと。神社から眺める月が綺麗だったこと。
せまいキッチンで、その人はよく料理をしていた。名前のない料理だったけれど、とても美味しかった。料理を作ってくれる間、わたしはだいたいベッドからその姿を眺めているだけだった。
作ってくれるご飯が美味しいから、あまりその人とコンビニ弁当などを食べた記憶はない。テイクアウトもしなかったと思う。
でも、よく一緒にスーパーに買い物に出た。わたしはくっついて歩いているだけだったけど、たまに買い物袋を持つのを手伝った。
そうして3年間も、その街で、そんなふうに過ごしていたのだ。

ヒールだと足を挫きそうな、あの急な坂道を下った先にその人と暮らした時間があった。
わたしはあの街が好きだった。坂道を駆け抜けていく時間のきらめきを今も覚えている。




もうひとつの記憶に残る街は、急行のとまらない駅で、下町商店街のある街だ。たった3ヶ月くらいだったけれど、好きだったひとと過ごした。残念ながらその街の写真は私の手元にはあまり残っていない。その頃にはもうカメラを持ち歩かなくなってしまっていたから。撮っておけばよかったなと思うけれど、記憶の中に鮮明に残っているのでそれでいい。

急行がとまらないということが、わたしはとてもすきだった。だって、その人と会うためには普段乗らない電車に乗り換えなければならない。その手間をわたしは愛していた。

駅のベンチでその人はよく待ってくれていた。会うときも帰るときも、わたしたちはそのベンチにいた。横には自販機があって、マッチを飲むことが多かった。小さな駅の、小さなベンチが、わたしにとってその街を象徴する大きな記憶だ。

その人の住む部屋に向かうまでの間に、すき家やコンビニに寄ってご飯をテイクアウトした。料理はぜんぜんしないひとだったけれど、暗い部屋で肩を並べて食べる牛丼はどんなものより美味しいと信じて疑わなかった日々だった。
でも、一度だけその人がキッチンに立って梨をむいてくれたことがある。くだものの皮を剥くのは結構大変なんだよな、と思いながら真剣に包丁を動かすその横顔を眺めていた。

今ではもう、急行で通過するだけの駅だけれど、たまに車窓からあのベンチが見える。あの頃のわたしたちがいるような気がして、そのくらい切り離された過去になっていった。
間違いなくわたしはこの街のことを好きだった。もう降りることはないのだろうと思いながらも、好きだったことは確かに残っている。

その人のことを知ることは、その人の住む街を知ることでもある。
その人の住む部屋を広げていった先に、その街がある。

記憶は薄れていくものだし、忘れていくのは健全なことだけど、わたしの心には幾つかの街がまだあのときと同じまま光っている。

また更新します。

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