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あだ名のあの子。

小学生の従姉妹のクラスでは、クラスメイトをあだ名で呼び合うことは禁止されているそうだ。
昨今はそういったクラスや学校はけっこう多いらしい。

呼ぶ方も呼ばれるほうも、「いつでも誰も傷つかない世界」なんて永遠に来ないから、いっそ「禁止」としてしまいたい気持ちもわからなくはないな、と思った。

かくいう私もあだ名で傷ついたことがある。
だけど、呼ばれて傷ついたわけじゃない。
そのとき私はあだ名で呼ぶ側だった。

小学生の途中で2回の転校を経験した私は、初日の儀式みたいなものも同じ数だけ経験した。
「私、〇〇。〇って呼んでね。」のようなあれである。
クラスメイトが覚えるのは私1人だが、私はその30倍は覚えなくてはいけない、というそれである。

2回目のその波の中に彼女はいた。
仮に、「八谷 C」ちゃん、とする。
彼女は言った。
「私のことハッチって呼んでね。みんなそう呼んでるんだよ。」
30数人のクラスメイトの名前を覚えるなかで、あだなのハッチはとても覚えやすかった。
帰る方向が同じだったので、毎日一緒に行き帰りする仲になった。それは、中学卒業まで毎日続いた。
一緒に過ごす時間が増えるにつれて、ハッチは呼ばれ方に相当こだわっていることを知った。下の名前で呼ぼうとした相手には、「あだ名で呼んで」と頼むほどだった。
ある帰り道、ハッチに聞いたことがある。
「ハッチは下の名前で呼ばれたくないの?Cちゃんとかさ」
私は彼女のトクベツに踏み込みたかったのかもしれない。
「私をCちゃんって呼んでいいのは、保育園のときに一緒だった、Bちゃんだけなの。」
「そ、そうなんだ。じゃあ呼び捨ては?」
「それは家族だけかな。」
「そうなんだー。Bちゃんとは会ってるの?」
「ううん。引っ越してから一回も会ってない。」「そっかあ。」

そんな会話の一年後、クラス替えののち、彼女は運命の出会いをする。Dさんだ。

ハッチはDさんに、「C」と下の名前を呼び捨てで呼ぶことを許した。Dさんは、家族にしか超えることの許されなかったラインを軽々と超えた。

そしてその学年末に、お互いの名前を題名にした作文をクラス文集に載せていた。

私は、「ハッチとDさんはクラス内にそれぞれ別の友達もいるはずだけど、その子たちはなんにも思わなかったのかしらん」と思っt……10年以上経ったからこんなふうに冷静な「私」を装うことができるけど、たぶん当時の私は「なんで?」の嵐だったに違いない。
言わなかったけれど。

時を経て迎えた小学生の最終学年、我々三名は見事同じクラスになった。
私とDさんは、ハッチの共通の友人ということでしか接点がなかったから「見事」もなにもないのだけれど、我々はそれなりに楽しく、時に衝突もしつつ、最後の1年間を過ごした。

そして卒業を迎えた。
しかし卒業時にはまた、あれがある。
そう、卒業文集だ。
毎年書いていたクラスの文集と違って今度は、もっと良質な紙で学年全員に読まれる、あれだ。

ハッチとDさんは、かつてとおなじように互いの名を冠した作文を書き、再提出をくらった。彼女たちは普段は言わない担任の悪口を散らしていたが、私はそりゃそうだろ。としか思っていなかった。
言わなかったけれど。

中学にあがり、「私」と「ハッチ&Dさん」はクラスが離れた。

そこで事件は起こった。理由は全く知らないが、ハッチとDさんは喧嘩をしたそうだ。それもそこそこ大きなもので、二人は絶交に近い形をとった。

私は、詳細を詮索もなければ、喧嘩を助長させるようなこともしなかったが、かといって仲を取り持ったりもしなかった。内心小躍りしていたかもしれない。まだトクベツになりたかったのだろうか。

しかしハッチは、そこでまた運命の出会いをする。ああ運命よ、扉を叩きすぎではあるまいか。

中学で出会ったそのEちゃんは、下の名前のほうを重ねた「CC」という呼び方で呼ぶことを許された。

私はハッチと出会って初めて「相手を呼ぶ」ということの重みを知った。
「おい」でもなく「ねえ」でもなくきちんと相手が「自分」を認識できる呼び方で呼ぶことの重みを。
そして、名前の偉大さも知ったと思う。

なんていうのはたぶん建前で、ほんとうは、ほんとうにほんとうは、
会ったことのない過去のBちゃんにも、私とは仲良くないDさんにも、私よりもずっと後に仲良くなったEちゃんにも嫉妬していただけなんだろう。
「帰る方向」という偶然を何年も共にしただけの私には、許されなかったトクベツに踏み込むことのできた彼女たちが羨ましかったのだ。

「地元が一緒」なんてほとんど偶然の産物だ。引っ越しも転校もたいていが親の都合だし。
「地元が一緒」で今も繋がっている友達なんて、全くいないわけじゃないけど、一握りもいない。
中学卒業後、私とハッチは数えるほどしか会っていない。今は、お互いLINEの友達欄にかろうじてぶらさがっているだけだ。
だから、たぶん、そういうことなのだ。「偶然」は自動的に「必然」にはなりはしないし、名前で呼べない私とハッチの仲は「偶然」がなくなれば、どちらからともなく消滅するものだったのだ。

だとしても、そんなに強固じゃない仲だったとしても、私は彼女のあだ名を呼ぶたびにたぶん少しずつ傷ついていた。
名前でもあだ名でも本当は変わらないはずなのに、呼び方で明らかに序列を感じていた。
あだ名呼びしか許されない有象無象。
決してあだ名自体が悪いわけじゃない。
それでも彼女を名前で呼べる誰かが現れるたびに傷ついていた。
呼ばれる方でなく呼ぶ方が傷つくなんて考えもしなかった。

だけど従姉妹の話を聞くまで、忘れていたから、あのときのもやもやは、もう昇華しよう。
さよなら、ハッチ。

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