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悪イ報セ


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 斜面を登りきると、煉瓦造りの平屋が見えてきた。屋根は茅葺で、軒下に玉葱の束がつるしてある。周囲には家庭菜園が広がっており、豆の蔓や、片隅には果樹などが植えてあった。

 マルクはいったん立ち止まり、まっすぐに背を伸ばして、また家に向かって歩き出した。

 蒸し暑い曇り空の午後だった。マルクは全身黒衣である。丈の長い上着、首元は黒絹の襟巻で隠し、ブーツをはいている。髪も黒く、顔は対照的に青白い。大食いで酒も好きなくせに痩せており、大きな暗い瞳はいつも泣いた後のように潤んでいる。そういった特徴は単に生まれつきの体質からくるものに過ぎなかったが、彼がたびたびこの役目を仰せつかるのは、その謹厳な修道士を思わせる外見のせいもあったのだろう。

 庭先に一人の少年がしゃがみこんで、短い木の棒で土を掘り返して遊んでいた。見知らぬ若者が近づいてきたのに気づいて顔を上げ、まじまじとマルクを見た。頬の赤い丸顔に、くせのある褐色の毛がまとわりついている。

 マルクは立ち止まり、物珍しそうに見開かれた少年の瞳を、冷静に見つめ返した。

「家に誰かいるかね?」

「おばあちゃんならいるよ!」

 と、少年は答えた。家の方を見ると、ブリキの煙突から煙がひとすじたちのぼっている。再び目を戻したとき、少年がふいに手を差し出して、握りしめていたものを見せた。マルクは一瞬彼が手にしているものがわからず、身をかがめてよく見た。それはいくつかの白っぽい石の欠片で、縞状になった断面がつやつやと光っている。

「これをね、家から通りまでの間に埋めるんだ。5歩ごとの距離に一つずつ」

「何のために?」

 マルクは反射的にそうきいてしまった。だが、これは子供の遊びだ。理屈の通った理由などあるはずもない。

「父さんが帰ってくるおまじない。前にもこれをしたらすぐ帰って来たんだ」

「父さん?」

「うん。船に乗って外国へ行っているんだよ」

 マルクは動きを止めた。視線がすばやく動いた。

「きみは……きみがバランの息子か」

 少年の顔がぱっと輝いた。

「父さんのこと知ってるの?今どこにいるの?いつ帰ってくるの?いつ?」

 そう言ってぴょんぴょん飛び跳ねながら、家に向かうマルクの後をついてくる。

 バランに一人息子がいることは知られていたが、当人が五十過ぎの親爺だったので、息子というのもすでに大人だろうと思われていた。しかしこの少年は予想外に幼い。まだ10歳にもならないようだ。

 マルクは煉瓦の家の木戸をたたいた。

「ねえったら!」

 返事をしないマルクに焦れて、少年が汚れた手で上着の腰のあたりを引っ張っている。マルクは反射的に上着の合わせ目を手で押さえた。上着は慈善バザーで偶然手に入れたもので、サイズも誂えたようにぴったりしていた。だが生憎これに合う細身のシャツを持っていないため、中は裸なのである。

 扉が開き、総白髪の小柄な女が姿を現した。薄茶色のスカートの上につけた黄ばんだエプロンで手を拭いている。

「トーガ&ジェック商会の者です。先日電報を差し上げた件でまいりました」

 女は頷き、厳しい顔つきで少年の方を向くと、手で追い払う仕草をした。

「あっちで遊んでおいで。お客さんと二人だけで話があるんだからね」

 少年は不服そうにもじもじしたが、結局追いたてられて立ち去った。

 通された台所は、茹でた芋の匂いと湯気がたちこめていた。マルクはカバンを開くと、木のテーブルの上に組合から支給された金を並べ、女と二人で数えた。それから書類を取り出して一緒に確認し、サインをもらった。

 女は窓から外をのぞいた。庭ではあの少年が、あいかわらず忙しく駆け回ったり、土を掘ったりしている。

「あの子には言わないでください」

 丸くなった背を向けたままつぶやく女の声は、わずかに震えていた。

「時が来たら、わたしから話しますから……」

「もちろん、それはおまかせします」

「あの子の母親も数年前に亡くなりました。わたしだって、いつまでそばにいてやれるかわかりませんけれど、ただ……」

 その先は、聞き取れなかった。色褪せた臙脂色のショールの肩が力なくうなだれている。

 マルクが外に出ると、少年が目ざとく見つけて、駆け寄って来た。笑顔だった。

「話は終わった?」

「ああ」

 少年はあいかわらずマルクの周囲を跳ねるようにしながら、ついてきた。

「どこへ行くの?もう帰るの?うちで夕飯を食べていかないの?」

「いや、これで失礼する。今日中に列車に乗らなければならないのでね」

「駅へ行くの?」

「そうだ」

「来たばかりなのに、もう帰るの? どうして来たの?」

 少年はまたしてもマルクの上着をつかんだ。そして、一緒に丘の斜面を下りはじめた。少年は、横に並んだマルクがつむじを見下ろせるほどの身長しかない。しかし、その小ささや人懐こさに対して、無邪気だとか、可愛いという形容詞は浮かんでこない。この子は小さな体に凝縮されたような意志と熱気、無言の押しつけがましさのようなものを持っている。

 マルクは困って彼を見下ろした。

「見送りはいらない。もう戻りなさい」

 だが、少年は頑としてマルクのそばから離れなかった。

「父さんの乗ってる船ね、フォルポーナ5号っていうんだ」

「……きみも大きくなったら船に乗りたいかね」

 少年は明朗な声を張り上げて否定した。

「乗らないよ!ぼくは乗らない」

「賢明だ」マルクはぽつりと言った。

 二人は町の大通りまでやってきた。マルクは菓子屋の前で立ち止まった。
「そら、好きな味のキャンディを買ってやろう。それを食べたら、家に戻るんだぞ?」

 少年は店を気のない風に一瞥した。

「いらないよ」

「何か他のものがいいかね。焼き栗か、それとも杏子がいいかな。ソーダ水はどうだ」

「ぼく、駅まで送っていくよ!」

 こうして少年はしつこくマルクにつきまとい、飽くことなく質問し続けた。

「どうしておばあちゃんのところに来たの?」

「組合の用事だよ」

「組合って何?」

「君も働くようになればわかる」

「どうしてそんな上着を着てるの?暑くないの?どうして脱がないの?」

 二人は駅までやってきた。マルクが列車に乗り込むと、少年も隣に腰掛けて、売店で買ってやった薄荷のキャンディ棒を舐めていた。

「ねえ、父さんのこと話してよ!」

「……君は、船は好きじゃないのかね」

「好きだよ!」

「でも船乗りにはなりたくないのか」

「ぼくはおばあちゃんをひとりぼっちになんかしないよ!」

「だったら船主になるといい」

「船主って?」

「金を出して商船を買い、航海に送り出す。自分は乗らないが、儲けを受け取る」

「でも、船って沈んじゃうこともあるんでしょう?」

 マルクは身をこわばらせて少年を見た。相手はマルクの顔を見上げていた。その目は大きく見開かれ、唇は一文字に引き結ばれている。

 発車の合図の笛が鳴った。

「列車が出るぞ。もう降りなさい」

 マルクは少年をせかして立たせ、列車のドアから押し出そうとした。だがそのとき、少年が思いがけない力でマルクにしがみついてきた。驚いて身を引こうとしたが、彼はマルクの服や髪に手当たり次第しがみつき、頬に爪を立てた。二人はつかの間、無言のまま格闘した。

「いい加減にしろ。離さないか!」

 思わず強い口調で叱りつけたとき、少年が無理矢理につかんだ合わせ目からボタンがはじけとび、前が大きく開いた。上着の肩がずりおち、半身があらわになった。マルクの頬に血が上った。

 マルクは少年を突き飛ばした。少年は駅のホームに尻もちをつき、びっくりしたようにマルクを見上げた。

 マルクは今や半裸で、髪を振り乱し、息を喘がせて赤くなっていた。

「帰りなさい」

 口調だけはなんとか冷静を保って、マルクは言った。少年は必死に彼を見つめ続けている。その目で凝視されると、マルクは動揺し、自分と同じ年の男と議論してでもいるように声を荒げた。

「帰ってくれ。きみの質問には答えられない!」

 少年の目にみるみる涙がもりあがった。それが頬にこぼれ落ちるとほぼ同時に、上を向き、口を開けて泣きだした。

 列車が動き出した。少年はホームに座り込んだままわあわあ泣き、もうマルクのことは眼中にない。いや、最初からどうでもよかったのだろう。彼は上着のボタンとともに知りたかった答えをもぎとった。その強引さ、聞き分けのなさがあまりにも異質でまばゆく、眩暈がしそうだった。自分にもこんな時代があったのか。だとしたら、いつ、どこで失われてゆくものなのか? 

 列車の動きとともに少年が遠ざかってゆく。駅員がきて何か話しかけ、連れて行こうとしていたが、少年は首を振り、いっそう大声で泣きわめいている。

 マルクは上着を直し、合わせ目を手で押さえながら座席に戻った。ホームはもう見えない。泣き声だけがいつまでも耳に残り、引っ掻かれた頬がちりちりと痛んだ。


(了)

文 ありしゅ菓

画 雑垢民イビル様  https://twitter.com/MIAfZIThcwka6e9

 



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