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わずか3年前なのに古典!?「怪談」小池真理子


19世紀イギリスで流行した怪奇小説は、主人公が貴族のものが多いです。
貧乏貴族だったり没落しかかっていたりしますが、とにかく中流~上流の人たちです。

そもそも庶民は読者として想定されていない
主人公として焦点を当てられることもなかった時代だからかもしれませんが
もともと文学は貴族による貴族のための娯楽でした。

この本からは、意味合いは少し違いますが、同じ匂いを感じます。

私も怖い話は好きなので
一時は「怪談百貨店」「オカルト速報」「Z-file」などのサイトを
暇さえあれば巡回していたくらいなのですが
こういったところに書きこまれる怪談とは明らかに違っています。

この短編集の主人公は、仕事を持ち自立した女性たちで
そんな女性たちの存在を当然のものとして主人公に据えていること自体は
昔の小説にはなかったこと、現代的で素敵なことと思います。

ところでこの女性たち(男性もいるけど)一律に優秀かつコミュ強なのです。

彼女たちが他者の気持ちを先取りし、初対面の相手に話しかけて打ち解け、
巧みに気を使って立ち回る様子はまさに神対応です。
「対人関係に自信のない者は、ノウハウの本よりまず小池真理子の小説を読んだらよいのでは」と思うくらい。
読んだからと言って神対応が身につくわけではありませんが
少なくとも「ああコミュニケーションが上手い人の頭の中はこんなふうになっているのか」ということはわかります。

たぶん作者自身が国内有数のコミュ強で
そのうえ自分で自分の才能を自覚していない天才のように冷酷で
「この程度は大人ならできて当然の事」とでも仰るんじゃなかろうか

小池真理子は母が好きだった作家で、祖母も名を知っています。
そのくらいキャリアの長い有名作家ですから、当然たくさんの友人知人がいると思いますが
実は広いようで狭い貴族社会のようなところで生活していて
本気でイカれたやつや変なやつ 底辺の掃きだめにはまったく関わったことがないのかもしれない

そんな甘くて優雅で「温室の中で書かれた」と感じさせるところが
古い怪奇小説を彷彿とさせるのです。

違うのは、当時の貴族が身分制度による「生まれながらの貴族」だったのに対し
小池真理子の身分やコミュニティは、彼女自身の能力により獲得されたという点です。

貴族は生まれつき貴族なのですから、その中にはおかしな人間や健康体でない人間もいただろうし
能力の高い人も低い人もいたはずです。だからおもしろいのです。
しかし個人の能力により獲得されるコミュニティには、ある程度の資質がないと入れない
それ以下であれば入試や入社試験や面接やコンテストで淘汰される世界なのですから、
そのような中流社会というものは、貴族社会よりもっと凄まじくバラエティの乏しい温室なのではないか?

私はその温室に入ったことがないので、よくはわかりませんが

そんな元来人生イージーモードの、健康体と高IQ(とEQ)に恵まれた主人公たちが
ふとしたことから禁断の扉を開いてしまい、闇や死の世界と対峙してゆくわけです。

さすがプロだけあって文章力が卓越していて、冒頭からぐんぐん引き込んでくれて楽しく読めるのですが

怪談は(昔の小説はいざ知らず現代のは)「庶民による庶民のためのもの」と考えていた私にとって、この本はちょっとした驚きでした。

小池真理子にとってこの登場人物たちは「庶民」なのかもしれないけど、私には違うのです。

それは単純に登場人物がみんな金持ちだとかそういうことではないし、世代の違いといっていいのかもわからない


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アマゾンレビューでこんな感想を書いてらっしゃる方がいたのですが、

いや、私が感じた「作者の想定する標準」への違和感は、人生経験があるとかないとか、どう考えてもそういうことではないんですよね。

たとえば私がお婆さんになった時、それは断じてこの本に登場するようなおばあちゃまではないんですよ。それがはっきりとわからなかった、つまり今よりもっと人生経験がなかった頃の方が、むしろ共感できたかもしれません。

イラストbyありしゅ



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