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地球人の言葉で伝えて

ちょうどコロナ禍の緊急事態宣言で、今の仕事が休業に入る直前にあった、ある出来事を思い出している。その出来事と、いまの私の状態のあいだには、はた目におなじことはひとつもなくて、ただ、重なり合うたいせつな点の存在はある気がしたので、書いてみようと思う。

ある日、まだ入って日も浅い新人のひとの様子を観ていたら、なんとなく気になった。

これはちょっときついのかもしれないと感じて、なまえを呼んで、足を止めてもらった。

正面で、指先で両肩に触れながら、相手の目をみつめて

「だいじょうぶ?」

と、ゆっくり声をかけたら、その瞳からははらはら涙がこぼれ落ちて、一度ほどけたらもう右から左から、ただ溢れては流れての繰り返しだった。

人目につかないところで気の済むまでと、移動した。

すこしばかり時間がたつと、胸に留めていた感情もある程度は涙と一緒に流れ出てくれたみたいで、ひとことだけ、不安を感じているからこその、言葉を打ち明けてくれた。

まだ入ってきて間もない、そのひとが、私に、ぽろぽろ涙をこらえたりふいたりしながら打ち明けてくれたとき、私は、ちゃんと伝えなくてはと、思った。

みている姿、行動の事実と、私の感じている印象を、想いをこめて、言葉として、伝えさせてもらった。

伝えなくては、というよりむしろ、伝えたいという、エゴだった可能性も大きいとは思う。

これがまたべつの負担にならないよう、ただの一個人の意見であることも、伝えさせてもらった。

それからしばらく肩をさすっていたら、ようやく鼻をすすりながらではあるけれど、すこし落ち着いたみたいで、にこりと笑って、まだ目のまわりを湿らせたまま、元の業務に戻っていった。

まわりのサポートが必要だなあと感じて、そのときのじぶんにできる周りの人とのやり取りをした。

今日、急にこの日の出来事を思い出した。じぶんでもどうしてだろうと疑問に感じていた。

それで気付いたのは、この地球に、やっぱり私は、人間という殻を、肉体を、与えられて生まれたのだという事実だった。

そして、この地球では、感じ取るという行為のコミュニケーションももちろんあるのだけれど、この地球でしか体験できない、言葉を交わすという行為の尊いコミュニケーションがあるのだということを感じて、いま、改めて歓んでいる。

この地球に、人間として生まれて、うまく伝えられなくても、それでも、口や、文字にして発すること。言葉として伝え合うことのゆるされている素晴らしさ。

宝物に出会えたことが、私はうれしい。

どんなにちいさな言葉も、ひとつ聴くだけで、見えなかった相手の想いがひかりに照らされて、さっきまで立ちこめていた霧が嘘みたいに晴れるようなことも、ときにはあるのだと思う。魔法みたいに。

じつは感じ取る方が、よほど地球外惑星の能力で、魔法みたいなものなのにね。地球では。

ひとことを、惜しみたくないし、恐れたくない。

ちいさなひとつの言葉は、わたしを通って、地球、やがて宇宙へと広がりをみせる。

言葉をたいせつに想うからこそ、言葉で伝えることを躊躇してしまうこともあるけれど、奇跡としていまに浮かんだ言葉があるのなら、いのちを吹き込んで、照らしてあげたい。

そして私も、もしあるのなら、私に向けられた言葉を、この目をみつめて、聴かせてほしいと思っているのだということに、あの日の出来事を思い出しながら、新鮮な気持ちで、心から感じてる。

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