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【自己紹介】が苦手なあなたに読んでほしい -「パラノ」と「スキゾ」-


このnoteでは【自己紹介】に悩むあなた少しでも励ませればと思い、書くことにした。このnoteが少しでもあなたの自己紹介への抵抗感を減らせたらそれほど嬉しいことはない。


・自己紹介が苦手な「わたし」

いつからだろう。自己紹介が苦手になったのは

多分大学に入ってからだ。そうだ。留学に行ってさらに苦手になったんだ。私が所属していた国際教養学部は、簡単に言えば専攻を持たない学部だった。「幅広い分野」を学ぶことに価値を見出すような学部だった。

留学中に一番苦手だったフレーズがあった。

”What's your major?”(なにを勉強してるの)

向こうの大学で出会った人ほぼ全員に聞かれた。これを聞かれるたびに、私は狼狽し、じわっと嫌な汗をかく。私は聞かれる度に答えを変えていた。「言語学」と言ってみたり、「マーケティング」と言ってみたり。答える時は、いつも「同じ専攻じゃありませんように。」と願いながら。

「言語学」も「マーケティング」も好きで勉強したことがあるのは確かだ。しかし、それを専攻はしていない。だから同じ専攻の人に比べたら遥かに「浅い知識」しか持ち合わせていないと思ってしまう。「浅さ」が露呈してしまうのではないかといつも怖かったのだ。「同じ専攻」の人と出会う度に、「自分の軽薄さ」を突きつけられているような気持ちになった。多分これがわたしが自己紹介が苦手に感じるようになったきっかけだ。

自己紹介が苦手な理由は、専攻がないことだけじゃない。わたしは人生で長い間続けてきたことが少ない。就活の時に、「小学校から野球をやっています。高校では県大会にも出場しました。大学では野球部に所属し....」というような自己紹介を聞く度に、自信を失った。その人たちの一貫性が羨ましかった。


・【自己紹介】が苦手な理由

私は、限られた時間で「ストーリー」を構築することができない。自分の大部分を表すことができる「フレーズ」がみつからないからだ。

「22歳」、「女性」、「日本人」、「早稲田大学を卒業した」、「バレーボールが好き」、「化粧品が好き」、「ことばが好き」、「イギリスが好き」、「留学経験がある」、「ボルダリングジムでバイトしていた」、「海外旅行が好き」、「本を読むことも好き」、「最近はヨガと筋トレにはまっている」、「料理が好き」、「フランス語を勉強したことがある」、「テニスサークル所属」、「留学先で難民に英語を教えるボランティアをしていた」

このどれもが私を構成する要素であることに間違いはない。でも一つ一つの「要素の大きさが小さい」のだ。

例えば、要素の一つである「バレーボールが好き」。私は中学校、高校はバレーボール部に所属していた。しかし、大学に入ってからは「バレーサークル」には入らず、「テニスサークル」を選んだ。私のスポーツ遍歴には、「バレーボール」以外にも「テニス」や「バスケットボール」、「ボルダリング」、「モダンバレエ」などが存在するのも事実だ。「バレーボールが好き」と自己紹介をしても、それは中高の私しか説明できていない。長く続けてないから、そのどれもが自分のごく一部分しか説明してくれない。

「バレエ」を20年間続けてきた人は、なんの迷いもなく自己紹介で「バレエをやってました」というフレーズを選択することができるだろう。なぜなら、その一言は「 20年分の自分」を表現することができる「大きなピース」だからだ。それをはめることで、パズルの7割が完成することだってありえるだろう。

「大きなピース」がなく「小さなピース」が沢山あるわたしは、どれを選んでいいのかわからない。「続けること」が金科玉条とされる日本社会で「大きなピース」がないことは、いつだって自分の「軟弱さ」や「勇気のなさ」を感じさせる。これが自己紹介が苦手な根本的な原因だろう。いつしか私にとって自己紹介は、「小さなピース」しか持たないことを再認識させ、劣等感を感じさせる嫌なものとなった


・「パラノ」と「スキゾ」

しかし、最近「小さなピース」しか持たないことは「悪いこと」ではないと思えた捉え方に出会えた。そのことが自己紹介への抵抗感を減らしてくれた。だから皆さんにもそれをシェアしていこうと思う。

人間には大きく二つのタイプの人間がいる「パラノ」と「スキゾ」である。

パラノはパラノイアの略であり、偏執性をさす。スキゾはスキゾフレニアの略で分裂性指す。山口周の『武器になる哲学』の中からそれぞれのタイプと「アイデンティティ」への考え方が説明された箇所を引用する。

「パラノ型の人は、例えば『〇〇大学を卒業して、〇〇商事に勤めていて、〇〇ヒルズに住んでいる自分』という自分のアイデンティティに固執して、このアイデンティティをさらに稠密に彫り込んで芯を出していくように、新しい整合的な特質に邁進します。(中略)パラノ型の人は、他者からはいわゆる『一貫性のあるわかりやすい人格・人生』ということになります。」
「スキゾ型の人は、固定的なアイデンティティに縛られることがありません。(中略)直感の赴くままに自由に運動し、その時点での判断・行動・発言と過去のアイデンティティや自己イメージとの整合性についてはこだわりません。」

日本において多くの場合評価されるのは、「パラノ型」の人間であると言えるだろう。私が自己紹介が苦手になったのも「パラノ型」が正しいという風潮からだろう。

そう。自己紹介が苦手な我々はきっと「スキゾ型」の人間なのだ。


・自己紹介が苦手な私たちの時代?


山口氏は同書でこれからの時代を生き抜くためには「『パラノ型』から『スキゾ型』への転換が求められている」と述べており、「(スキゾは、)軽薄で軟弱な生き様に思えるかも知れません。しかし全くそうではない。むしろ勇気と強度を持たない人こそ、現在の世界ではパラノ型を志向し、それらを持つ人だけがスキゾ型の人生をしたたかに歩むことができる」とこの項を締めくくっている。どういうことだろうか。

現代社会はVUCAと言う言葉で表されることも多い。Volatility(変動性)Uncertainty(不確実)Complexity(複雑)Ambiguity(曖昧)の四つの単語の頭文字をとったものである。この言葉は社会の予測困難な時代になってきていることを指している。

そのような今の社会では、ビジネスが「花形」産業である期間も昔に比べて遥かに短くなってきている。そんな中、例えば、「商社マン」であることに7割のアイデンティティを感じている「パラノ型」の人がいたとする。その人は、「商社」が斜陽産業になった時、自分の7割が消失したような気分になり、自信を喪失しその後なかなか転職などの行動にうつれないだろう。「パラノ型は環境変化に弱い」のである。

コロナのように予想出来なかった事態はこれからもたくさんおこるだろう。予測できない社会では、アイデンティティに縛られず早く決断・行動できる「スキゾ型」の人間が生き抜ける。一つのことだけに没入してこなかったから、それが無くなっても「自分」を保ち続けられるのかも知れない。

これを知ったら、「大きなピース」があることだけが金科玉条じゃないと思えるのではないだろうか。「小さなピース」を深めようとする努力は不可欠だと思うが、それが不必要だと思ったらピースを捨て新しいものを探せる私達のような人間にも価値があるのだ。


まとめ

だから「小さなピース」だけの自分に劣等感をそれほど感じないでほしい。他人と比べて小さくても、自分の中で大きな「ピース」を述べるだけでいい。「パラノ型」の人間になれなかった自分を卑下しなくてもいいのではないだろうか。

いる地点で努力しながらも、違うなと思ったらやめる決断ができる。努力してた「時間」や「労力」にとらわれない「スキゾ型」の私達にも価値があるのだ。

やっている時は努力や労力を惜しまず行い、「ここじゃない」と思った時に迅速に決断できるような人生を選択するのも悪くないのではないか。


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あるぱか

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