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田村哲郎ダンススクールにおける私の危ないからだ体験記

いまから30年ほど前、しばらく現代風俗研究会に所属していました。1994年の年報に寄稿した文章をここに再録します。
特集は「アブない人体」 編集は京都精華大学の斎藤光先生でした。


観客としての舞台

 私と田村哲郎氏との出会いは(30年前にこの文章を書いている時点で)5年ほど前のことになります。舞踏との出会いはもっと前で、白虎社の舞台を観て合宿にも参加しました。(別に書いたものを、この文章の最後に付録として載せています。)それからちょっとしたまねごとをしてみたり、舞台を観たりしながら5年が過ぎました。そして中野テルプシコールにて田村氏の舞台を初めて観ることができたのです。これはちょっと感じが違いました。舞踏は白塗りをするものだという一般的認識を私も持っていましたから、最後まで素顔というのがかえって奇妙にうつったのです。後に田村さんからそのことについて聞くことができたのですが、白塗りさえすれば舞踏だという風潮が強いことに反感を持っていらしたようです。「自分は本当の舞踏をしているのだから白塗りをする必要もない」とおっしゃっていました。私は田村氏によるダンススクールの案内を見て、ちょっとのぞいてみる価値はあるかなと思いました(本当言うと、白虎社の合宿にもかわいい女の子が多かったし・・・なんていう不純な動機もあったのですが)。それで田村氏の住む国立に引っ越して行ったのです。初めての稽古、練習生は私を除いて誰もいないのです。田村先生と由美子夫人と私の3人です。「来るものは拒まず、逃げるものは追わず」とは田村さんの弁です。最初の稽古で印象に残っているものがあります。いろいろな歩き方の練習だったかと思いますが、その中で身体の一部が引っ張られているとイメージして歩くというものがありました。これは自分の思いもよらなかった動きが出てきてちょっとした感動でした。

 「もし健康のためにと思って来たのならやめておいたほうがいいぞ。舞踏は身体に悪いからな」。最初に釘を刺されました。何事もそうです。程々にしないと必ず身体をいためます。でも程々では本当の面白みがわからないというのも確かなのです。

 それから週1回くらいの割合で稽古に行き始めました。帰りはいつも近くで軽く飲んで、ビールと一升瓶焼酎、あるいは国立ワインを買って田村さんの家で飲み直しです。田村さんは料理が上手でした。大駱駝館時代は料理長だったとか。そして酒とたばこは絶対に欠かせない人でした。健康のためには一日中寝ているといった感じの人でした。でも田村さんと付き合っていくうちに、健康とはいったい何なのかよくわからなくなってもいたのです。

 あるとき飲み屋でこんな話を聞きました。身体障害者の方のような動きでコップを口に運びながら、「こうやって飲むと不自由そうに見えるだろ。ところが彼らにとってみれば一番合理的な方法で飲んでいるんだよな」。このとき私はハッとしました。口では偉そうに、自分の尺度で相手を計ってはいけないなんて言っていたけれど本当のところ自分自身はどうだったのかと。

 

表方としての舞台

 初めて舞台を手伝うことになりました。一サラリーマンの私にとっては忙しい日々が続くことになります。自分が舞台に上がるわけではないのでそれほど覚えることがあるということはないのですが、踊りができていく過程が面白くて稽古に出ていました。そのころから、舞台は観るより創る方が断然面白いと思うようになりました。危ない身体への第一歩です。

 ふだんの稽古は前半で野口体操を行います。この体操がなかなか難しい。今まで学校の体育でやってきたものに比べると、非常にグニャグニャでだらしない感じの動きです。私はどちらかというとこちらの方が好きなのですが、どうしてもうまくいきません。後から入って来た研究生の方が早くうまくなっていきます。どうしてかなあとずっと考えていました。あるときふと気付いたことがあります。それはそれまでの自分があまりにもイメージ が先行し過ぎていたということです。ときには、身体の中が流体のようにとか、鎖が床にスルスルと置かれるように身体を曲げるとか、あるいは手をスポッと放り出すなどと表現されます。それを耳で聞いて考え、自分ではそういう動きになっているつもりでやっていても第三者からすると全くそのようには見えないのです。そこでどうしてもだめなら最初からそう見えるようにとだけ考えてやってみようと思い始めました。手をドンと遠くに放り出すなら逆に残っている身体を少し後ろに引けばよい。素早い動きをして見せるのなら最初は身体の力を抜いてダラッとしている状態からスピーディな動きにもっていけばよい、というようなことです。それで少しは見栄えがよくなったとは思っていたのですが実際はどうだったことやら。私の身体はかたくて、足は短く、融通がきかず、素直に動かないどうしようもない身体です。バレエやモダンダンスには絶対向かないでしょう。でも舞踏には結構向いているよ、と田村さんは言ってくださったのですが本当のところはどうだったのでしょうね。

 

裏方としての舞台

 それから少しして次の舞台がありました。これは前に観た舞台の改訂版だったのですが、今回は音響の役をおおせつかってしまったのです。裏方だから気楽かというそんなことはありません。もし自分が失敗したら舞台全体がだいなしになってしまうのではないかと非常に緊張しました。私にとっては初めての経験で何とか言われた通りにやるのに必死でした。でも本当のところは、音響とダンサーの掛け合いみたいなところもあって、ダン サーのノリが悪いと、何をやっているのだと言わんばかりに、これでもかこれでもかと音をガンガン出したりすることもあるらしいです。私の方は2回やったうちの1回目の最後で、当日にこの音を使うようにとテープを渡されて、どこから次の音に変えていいのかわからずノビノビになってしまいました。由美子さんが踊りながら大声で「音チェインジ」と言っていたのですが。三回目くらいでやっと気がつき、スーッと冷汗が流れました。で も由美子さん曰く「おかげでたっぷり踊らせてもらったわ。」

 舞台が終わって研究生が少し増えました。1人でやっているのとは大違いです。田村さんは割と稽古場の環境も気にする人でした。あるとき田村さんが来る前にホームビデオの前で何かの表情をつくって2人で踊っていましたそこに遅れてやってきた田村さんが入ってきて、少しの間何も言わずにじっと我々を観ていました。そして一段落すると、「今のは良かった。何かわからんが良かった。この西陽がスーッと差し込んでくるこの状況を忘 れるな」。また、田村さんはあまり稽古が好きな人ではありませんでした。稽古場でも昼寝をすることがよくありました。昼下がりのけだるさの中で何もせずにボーッとしているのが何とも言えず気持ち良いのです。ハードな練習をして身体を鍛えるより、何か訳のわからないような動きをしながら踊りを創っていく、そんな田村さんにシビレてずっと一緒にいました。

 

初舞台

 私が研究生になって3回目の舞台が決まりました。「積古だけやっていたってつまらんだろう。舞台で踊れ。」これで初舞台が決定です。今回は私を含めて研究生が4人、それと客演1人の合計7人の舞台です。テーマは『十牛図』。舞台に向けての稽古が始まります。ほかのメンバーは割と昼の時間帯も自由に使えるので私よりも稽古の時間が長くなります。私ときたら、6時頃に神田の会社を出て1時間電車にゆられ、夕飯も食べずに稽古場へ直行。どんどんスマートになっていきました。はけなかったズボンがまたはけるようにもなりました。私は1時間遅れで稽古場に入るので、着替えてすぐ簡単に野口体操をすませ、身体が暖まったらみんなの中に入っていきます。まずは歩き方の練習からです。丸太あるいは電柱なんかがズズッと移動してくるように歩かなければなりません。これがいつまでたってもできなかったのです。どうしても丸太が折れ曲がってしまう。身体に力が入り過ぎてしまうのです。通勤時間も無駄にせず電車待ちのホームでも練習しました。もちろん電車の中でも。どうせ1時間も立っていないといけないのだから。結構電車の中で その動きに身を任せて立っているというのは気持ちの良いものです。立った状態で、身体を自然にスーッとゆらしていくというのもやりました。このときには、観ている方が船酔いした気分になるよう本当に微妙に身体をゆらすようにと言われました。さて先ほどの歩き方ですが、舞台本番の2日くらい前になってやっとできました。これは意外だったのですが、できてしまうとどうして今までこれができなかったのかがわからなくなるのです。 それどころか、今までやっていた歩き方の方が今度はできなくなってしまいます。こういうことはほかにもいろいろあるのではないでしょうか。だんだんできるようになるのではなく、ある段階に来るとスッとできるようになってしまう。今でもこの歩き方は忘れずにいます。おそらく一度身体が覚えてしまったら二度と忘れないのではないでしょうか。

  もう一つの歩き方の練習。こちらの方が体力的にはもっとハードでした。背中を丸めて腰を落とす、ちょうどお婆さんが「よっこらしょ」としたようなかっこうです。見た目にはだらしなさそうなのですが、太股の筋肉やら腹筋やらがパンパンにはって長時間やっていると立っていられなくなるぐらいです。そしてその体勢で、足から波が入ってきて頭から抜けていくのをイメージして身体をグニャグニャとゆらすのです。この動きは私は大好きで、身体はきついけどやっていると気持ちは良くなってきます。実際、全く舞踏など観たこともない友人が舞台を観に来てくれて「おまえの身体があんなグニャグニャに曲がるとはなあ」と感動してくれました。しかしそのとき連れてきた彼女には「あんなお友だちがいるのね」と言ってふられてしまったそうで、大変申し訳ないことをしました。結構私の身体も危なく観えたのでしょうか。

 舞台当日。前日まではかなり裏方の仕事も忙しくあれやこれやとやっていたのですが、本番前に田村さんから「今日はお前はダンサーだから」と言われたときには感動してものすごくやる気がわいてきたのを憶えています。

 本番前はみんな緊張します。でも舞台に上がって照明を浴びると、客席の方がほとんど見えないので意外と緊張せずにすみます。広い舞台で大音響の下、照明を浴びて踊ると、稽古のときとは全く違った感覚になってきます。自分だけが目立ってやろうという気にもなってきます。そしてカメラのシャッターの音を聞いてはゾクゾクとしたものです。そしてまた、舞台が終わって打ち上げで飲むビールの旨いこと、この上ありません。ただ私には3時間後には会社に行かなくてはならないという現実が迫っているのです。舞台が終わってからの1、2週間は完全に力が抜け切ってしまいました。

 それからしばらくして、一緒に踊ったメンバーがスーッといなくなり、また新しいメンバーが1人だけやってきました。2ヶ月くらいの間は田村先生夫妻が地方の仕事で不在ということもあり稽古をさぼっていました。2人がもどられて鶴見のストリップ小屋で踊られるということで、それも観に行きました。ホームビデオで映そうとしたら、お客の顔は映さないでくれと言われました。舞台裏の控室にも入ることができたのですが、みなさん 本当に疲れ切っているようでした。やはりプロは半端ではないのです。そして、そこでも危ない身体を発見することができたのです。

 

最後の舞台

 最後の舞台です。「演劇祭に参加するんだけど出るよね。この前の舞台の写真に映ってた顔がすごく良かったから」。由美子さんに言われて、前に疲れてクタクタになっていたことも忘れて、またあのゾクゾクという感触が欲しくて、「はい」と返事をしてしまいました。テーマは『盲ひ聾ひ魂』。前回にも増してハードな日々が続きました今度は倒れ方です。野口体操のにょろ転からスーッと引き上げられるように立ち上がろうとしてまた倒れていく、ということの繰り返しです。身体中あざだらけになるまで転げ回りました。しかし結局私にはこれが最後まで満足にできませんでした。なぜだったのかと考えてみると、当時昼間の生活がゴタゴタしていて精神的に踊りにのめり込めていなかったのかも知れません。舞台が終わってからある写真家の方にそれを指摘されたのはすごくショックでした。自分としてはそれでも精一杯力を出し切ったつもりでいたから。ただこの舞台では自分で考えた踊りらしきものがヒントになって振り付けが創られた部分があるので思い入れも大きいのです。ある日の稽古で「5分間時間をやるから適当に踊ってみろ」と言われました。そのころ私は安部公房の「方舟さくら丸」の文庫を読んでいて、そこに出てくる時計のように回りながら自分の糞を食べているユープケッチャという虫のことが頭にありました。そこで私はその虫になり切って同じ場所をクルクルと回っていました。ただそれだけです。でも田村さんは何にでも興味を持ってくださいました。「今のは虫だな。ちょうどいい、今回のテーマにピッタリだ。一寸の虫にも五分の魂てな」。というわけで舞台 の中に虫が登場することになります。田村先生の手にかかるとこれが一気に踊りになってしまう。ユープケッチャがザムザに変わりはしましたが。しかしまたこの振り付けがきつい。いつまでたっても思うように行かず膝は破けて血まみれになりました。結局、最後までうまくは行かなかった。でも本当言うと衣装でかなり助かった部分はあったのです。真白のひらひらのついたスカートに真っ赤なソックス。舞台の上では何とも言えぬ、可愛ら しい、気色悪い、奇妙なものが出来上がりました。舞台は田村さんのセクシーな肉体が舞台奥に出現するところから始まります。マーラーの交響曲に合わせて。途中私たちが踊っているときに急に音が消えました。自分たちのハーハーという音が聞こえ、一瞬、素にもどってしまい、急に緊張してきました。後から聞くとわざとそうしたのだそうですが、冷汗が出ました。田村さんに言わせると「無音で踊るのは気持ちいい」とのことでしたが。田村さんはよく「踊りは音楽に合わせてしまってはいかんし、また無視してしまってもよくない。つかず離れずが良いのだ」とおっしゃっていました。私ともう1人の研究生が蚊帳に入って虫になり切り、田村さんたちが舞台を慌ただしく歩き回り、そして一転して静けさの中、舞台が終わっていきました。

 それから少しして田村さんは入院され、1年後に亡くなられました。私は東京を離れてしまったので、結局一度も会わずじまいでした。田村さんの側にいた1年半くらいの間でいろいろなことを発見することができました。田村哲郎という人間の身体自体に大いなる危険がはらんでいました。危なさの塊です。しかしその危うさの中から、あのえもいわれぬ美しさがにじみ出てくるのです。ちょうど危なげに立っている卵のように。稽古場で、あるいは飲み屋で見たあのふとした動きがなんとも言えず好きでした。哲郎さんはきっと今も彼の世で酒と煙草を手に難しいことをしゃべりながら、踊りを考えていることでしょう。

 こうして私の危ないからだ体験が終わります。危なさがなくなりみっともない身体になってしまいました。でもまだ完全には消えずにくすぶっている灯が、私の身体のどこかに残っているようでもあります。

 

《田村哲郎プロフィール》
1950年、高知に生まれる。1972~79大駱駝艦に所属。1979~88ダンス・ ラヴ・マシーン主宰。1998より、PROJECT FAKE 一闡提 をスタート。1988年 第14回舞踊批評家協会賞受賞。代表作に「蝦蟇の復讐」「阿呆の王」「でたらめ」「十牛図」など多数。


付録

別稿「六花伝説」より
白虎社 夏合宿の記録

危ない体験
 今回は寮から離れて、僕の危ない体験について語る。1年生の春休み、僕は東京まわりで実家に帰った。東京からは大垣行き夜行。キップはもちろん「青春18キップ」。お金はないけど時間のある学生の特権。思いこみというのは恐ろしい。夜行の場合、前日のキップは翌朝下車するまで有効と思い、車掌が検札に来たときもそう言い張り、押し通してしまった。さて、東京では電車が出発する時刻まで時間を持てあましていた。僕は有楽町のマリオンにいた。そこには大きなホールがある。たまたま舞踏フェスティバルをやっていた。大野一雄、土方巽、大駱駝艦、ダンス・ラヴ・マシーン・・・そのときは全く何のことか分からなかった。でも、すうっと引き込まれていった。その夜は白虎社の舞台。当日券は確か3500円くらい。当時の僕にはそれだけのお金を払うのはかけに近かった。でもなぜか当日券の順番を待つ列に並んでいた。補助席ではあったけど、一番前に座れた。マルパというバンドの大音響で舞台が始まる。横にはなぜか、尺八、琴、三味線、それに義太夫の人までいた。そのアンバランスさがおもしろかった。舞台の上は何やら体を真っ黒にぬったゴキブリのようなものがごそごそ出てきた。次は裸で体中真っ白の女の人たち。とにかく舞台せましと動き回っていた。棺桶を割って現れたのは蛭田早苗。ずっと白目でおどろいた。ふと舞台奥を見るとグランドピアノの上に横たわる大須賀勇。とにかく驚きの連続であった。20才の僕には衝撃が大きすぎた。しばらくはボーとしていた。アンケートにそのときの気持ちを書いて、京都の実家の住所電話番号を書いた。2年の夏、僕は実家で暇を持てあましていた。そこへ白虎社から10日間の合宿に参加しないかという誘いの電話。当時は費用が3万円(その後急激に高くなった)。ひまだし、そんなに高くないし、行ってみることにした。米と梅干し持参で合宿参加。集合場所に来た迎えの人は丸坊主、眉毛がない、こわそう。僕らはトラックの荷台に乗せられて廃校になった小学校に連れて行かれた。場所は和歌山県の山奥。朝は6時起床でマラソン、帰りに山菜をつんでくる。料理は当番制。朝食は一汁一菜、五分がゆ。その後、まき割りをしたり、ゴミ捨て用の穴を掘ったり、練習用の丸太を壁につけたり。それから、小さな講堂らしきところで稽古が始まる。基本は野口体操から。体をくにゃくにゃにする。体のかたい僕には何ともきつい。でもおかげで1週間で体はすっかり引きしまった。昼食は一汁二菜、七分がゆ。午後は真ん中にろうそくを立てて顔の表情の練習。大きな顔、小さな顔、笑った顔、怒った顔、泣いた顔。動物のまねもした。サル、ウマ、鳥・・・。男子は風呂なし。水のシャワーを校舎の横で浴びる。夕食、一汁三菜、ふつうのごはん。ずっと肉はなし。夜にはいわゆる文化人が話をしに来る。その中には後に有名になった漫画家の蛭子能収もいた。さて、5日くらいが過ぎたある日、僕らはまたトラックで川の岩場に連れて行かれた。いきなり断髪式を宣言される。そこで逃げ出したものが何名か。僕はモヒカンにしてもらった。さすがに眉毛はそらなかったけど、そった人たちは人相が変わっていった。体中を白く塗りビデオ撮影。ちょっといい気分。それから3日目くらいに村の人たちをよんで舞台発表。もちろん舞台づくりも衣装も自分達のお手製。グループごとに出し物の練習。リーダーの大須賀さんの許可が出たのは夜中になってからだった。僕たちは油でのばした金粉を体にぬった。舞台では女の子をかついでぐるぐる回すのだけど手がすべって大変だった。でも、何だか快感。その後、打ち上げ。ここで初めてアルコールが登場。肉まで出てきた。1週間で引きしまった体がまたもとにもどった。そんなこんなで危ない合宿は終わった。帰り道。はじめは変な頭の連中ばかりいっしょにいたからあまり気にならなかった。でも、1人になって電車に乗っていると、まわりの視線がぐさりと突きささる。子ども「あっ、ウルトラマンだ。」母、おびえながら「これ、やめなさい。」家に帰ったときの家族のおどろきようはもっとすごかったのかなあ。その年の秋、寮祭でいやがる1年生をかつぎ出し、みんなを真っ白にしてしまった。僕の髪と眉毛はきれいになくなっていた。学生だからできたんだなあ。

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