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【社会歴史】江戸時代(享保の改革):二宮尊徳

自己紹介

私は二宮尊徳(にのみやそんとく)、別名金次郎(きんじろう)と申します。天明7年(1787年)に相模国(さがみのくに)足柄上郡(あしがらかみぐん)栢山村(かやまむら)に生まれました。幼い頃に両親を失い、貧困の中で育ちましたが、勤勉と節約を心がけ、荒れ果てた田畑を復興させました。

私の功績は、農村の復興と経済再建にあります。「報徳思想」という独自の思想を基に、多くの農村で復興事業を成功させました。この思想は、「至誠(しせい)」「勤労(きんろう)」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」の四つの徳目を重視するものです。

私の残した言葉に「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」があります。これは、道徳と経済のバランスの重要性を説いたものです。

若い皆さん、困難は誰にでもあります。しかし、それを乗り越える力も皆さんの中にあるのです。一歩一歩、着実に前に進んでいけば、必ず道は開けます。今は家の中で過ごす時間が多いかもしれませんが、そんな時こそ、自分を見つめ直し、新しい可能性を探る良い機会です。私の言葉を胸に、自分なりの道を見つけてください。

なりきり解説

さて、今日は江戸時代の「享保(きょうほう)の改革」について解説しましょう。この改革は、八代将軍徳川吉宗が行った政策で、江戸幕府の財政再建と社会秩序の立て直しを目指したものです。

まず、吉宗は目安箱を設置しました。これは、民衆の声を直接聞くための制度です。民衆の意見を聞くことで、より良い政治を行おうとしたのですね。

次に、法制度の整備として公事方御定書を作成しました。これは、裁判の基準を明確にし、公平な裁判を行うためのものです。

経済面では、商品作物の栽培を奨励しました。これは、農民の収入を増やすためです。また、問屋制家内工業も発展し、農村の副業として重要になりました。

一方で、この時期には地主が台頭してきました。小作人から高い小作料を取る地主も現れ、農村の格差が広がっていきました。

農民の負担が重くなると、不満が高まります。そのため、傘連判状(からかされんぱんじょう)という形で、農民たちが団結して年貢の減免を訴えることもありました。

時には、農民の不満が爆発し、百姓一揆打ちこわしといった暴力的な抵抗運動も起こりました。これらは、為政者にとっては頭の痛い問題でした。

享保の改革は、幕府の立て直しには一定の効果がありましたが、根本的な問題解決には至りませんでした。しかし、この時期の経験は、後の時代の改革にも生かされていくのです。

江戸時代(享保の改革)にまつわる噂話

ふむ、享保の改革の頃には、面白い噂も飛び交っていたそうですな。

例えば、目安箱に入れられた訴状の中に、将軍吉宗を批判するものがあったという話があります。吉宗はそれを読んで大いに笑い、「よくぞ言ってくれた」と言ったそうです。本当かどうかは分かりませんが、吉宗の度量の大きさを示す話として語り継がれているのです。

また、吉宗が庶民の格好をして江戸の町を歩き回っていたという噂もありました。実際に町の様子を自分の目で確かめようとしていたのかもしれません。

商品作物の栽培が奨励されたことで、ある村では大根の栽培が盛んになり、「大根村」と呼ばれるようになったという話もあります。その村の大根は特に美味しかったそうで、江戸でも評判になったとか。

問屋制家内工業が発展したことで、ある農家の娘が織物の腕前を買われて、大店の嫁に迎えられたという噂も聞きました。才能があれば、身分を超えて認められることもあったのでしょう。

このような噂話からも、当時の世相や人々の暮らしぶりが垣間見えるのではないでしょうか。

練習問題と解説

1.享保の改革を行った将軍の名前は誰でしょうか?





解答:徳川吉宗
解説:
享保の改革は、江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって行われました。吉宗は、幕府の財政再建と社会秩序の立て直しを目指してこの改革を実施しました。

2.民衆の意見を直接聞くために設置された制度の名前は何でしょうか?





解答:目安箱
解説:
目安箱は、民衆が直接将軍に意見や訴えを届けることができる制度です。これにより、吉宗は民衆の声を聞き、より良い政治を行おうとしました。

3.裁判の基準を明確にするために作成された法令集の名前は何でしょうか?





解答:公事方御定書
解説:
公事方御定書は、裁判の基準を明確にし、公平な裁判を行うために作成された法令集です。これにより、罪と罰の関係が明確になりました。

4.享保の改革で奨励された、収入を増やすための農作物は何と呼ばれますか?





解答:商品作物
解説:
商品作物は、自家消費ではなく販売を目的として栽培される農作物のことです。これを奨励することで、農民の収入増加を図りました。

5.農村の副業として発展した、問屋が原料を提供し、農家が製品を作る生産方式を何と呼びますか?





解答:問屋制家内工業
解説:
問屋制家内工業は、問屋が原料を農家に提供し、農家がそれを加工して製品を作る生産方式です。農村の副業として重要な役割を果たしました。

6.この時期に台頭し、小作人から高い小作料を取ることで農村の格差を広げた人々を何と呼びますか?





解答:地主
解説:
地主は、土地を所有し、小作人にそれを貸し出す人々のことです。この時期に台頭し、高い小作料を取ることで農村の格差を広げる要因となりました。

7.農民たちが団結して年貢の減免を訴えるために作成した文書を何と呼びますか?





解答:から傘連判状
解説:
から傘連判状は、農民たちが団結して年貢の減免を訴えるために作成した文書です。「から傘」は、農民たちが円形に署名することから付けられた名称です。

8.農民の不満が爆発して起こる暴力的な抵抗運動を何と呼びますか?





解答:百姓一揆
解説:
百姓一揆は、農民たちが集団で起こす暴力的な抵抗運動のことです。年貢の減免や悪政の改善などを要求して起こされました。

9.都市で起こる暴動で、米屋や酒屋などを襲撃する行為を何と呼びますか?





解答:打ちこわし
解説: 
打ちこわしは、主に都市部で起こる暴動で、米価高騰などの際に米屋や酒屋などを襲撃する行為を指します。民衆の不満の表れでした。

10.享保の改革の主な目的は何でしたか?





解答:幕府の財政再建と社会秩序の立て直し
解説:
享保の改革の主な目的は、幕府の財政再建と社会秩序の立て直しでした。様々な政策を通じて、幕府の統治体制の強化を図りました。

よくある質問 (FAQ)

Q1: 享保の改革は成功したのですか?

A1: 成功か失敗かを一言で言うのは難しいですね。確かに、幕府の財政は一時的に改善され、社会秩序も一定程度回復しました。しかし、根本的な問題解決には至らず、後の時代にも課題は残りました。ただ、この改革の経験は、後の改革にも生かされていったのです。

Q2: 目安箱に入れられた意見は本当に採用されたのですか?

A2: すべての意見が採用されたわけではありませんが、中には実際に政策に反映されたものもありました。例えば、農村の窮状を訴える意見から、年貢の減免が行われたこともあります。目安箱は、民意を政治に反映させる一つの手段として機能していたのです。

Q3: 商品作物とは具体的にどのようなものがありましたか?

A3: 綿、菜種、藍(あい)、たばこなどが代表的な商品作物でした。これらは、衣料や油、染料、嗜好品(しこうひん)として需要が高く、農家の現金収入源として重要でした。地域によって栽培される作物は異なり、その土地に適した作物が選ばれました。

Q4: 問屋制家内工業は農民にとって本当に良いものだったのですか?

A4: 良い面と悪い面の両方がありました。農閑期(のうかんき)の副業として収入が得られる点は良かったのですが、問屋に搾取(さくしゅ)される面もありました。ただ、この制度が日本の工業化の基礎を作ったという点は評価できるでしょう。

Q5: なぜ百姓一揆や打ちこわしのような暴力的な行動が起こったのですか?

A5: これらの行動は、民衆の不満が極限に達した時に起こりました。年貢の重さ、凶作による飢饉(ききん)、物価高騰など、生活を脅かす問題に対して、他に手段がないと感じた時に起こったのです。しかし、暴力は決して良い解決策ではありません。対話と理解を通じて問題を解決することが大切です。

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