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アン・ハサウェイになれないわたしたちは。

気づけば1か月近くもnoteを書いてない。

お洒落への第1歩を踏み出してからのこの1か月は、嵐のような大革命の日々だった。

へなちょこの服と鞄と靴を全部、ゴミ袋6個分も捨てた。

映画「プラダを着た悪魔」を見た。

アン・ハサウェイにはまって、写真をスマホの壁紙にした。

ドラッグストアをぐるぐる回って化粧品をいくつも買った。

眉専門のサロンに行って、下がり眉を劇的にまともにしてもらった。

毎晩髪にトリートメントをして、ブローもしていたら寝不足になって、寝坊して、ほぼ化粧せずに会社に行くという本末転倒の見本市みたいな日もあった。

インスタグラムをインストールして、「ootd」と検索した。

世界のお洒落な人々がしている、’G’の文字が2つくっついたベルトを調べたら、8万円くらいするやつだった。

699円のベルトを買った。

雑誌「Vogue」を買った。

世界のお洒落な人々みたいにかっこよくなれると思って、黒の細見のパンツを買ったのに、全然思ってたみたいにならなかった。

それで筋トレを始めた。

服や化粧品を買うお金を作るため、自炊するようになった。

何より気づいたことは、

お洒落をするということは、知性を軽んじることではないし、異性に媚びることでもない、ということだった。

こんなシンプルなことに気づくまで、なんて時間がかかったんだろう。


インスタグラムで見る、世界のお洒落な人々は、体型も顔立ちも髪も肌も様々だけど、みなそれぞれに楽しそうだった。

毎日ブローをしようが、時間かけてメイクしようが、ジミーチュウのヒールを履こうが、わたしたちは決して、アン・ハサウェイにはなれなくて

でも、自分の中にある、お洒落をする楽しさや、自分にお金と時間をかける幸福や、好きな自分で居られる喜びを抱きしめることはできる。

たぶん、それが肝要なんだ。


ファッションや美容について、知りたいことはなんでも、インターネットに書いてある。

ただしその多くは、「男性から好かれるにはどんなふうにすればいいか」が主眼となっていて、

ほとんどの見出しが「愛されメイク」「モテるコーデ」で占拠されている。

情報を取捨選択するのは自分の責任なのだから、そういうものはシャットアウトすればいい、と思いつつも、

異性からの評価を基準としてなりたい自分を決めるという大前提は、気づかぬうちに意識の中に、じわりじわりと忍び込んでくる。

彼らは判でおしたような女の子の写真を並べ、それ以外の言語を失ったかのように「抜け感」という文言を繰り返す。

これは、しんどい。

正しい女の子をどんどん限定していく商法は、不幸を増やす。

痩せているモデルさんを掲載したら、せめて同じだけの標準体型の人、プラスサイズ(curveというらしい)の人も載せるべきでは、と思う。

自分を幸福にしてくれる媒体を選び取るのは、なかなかに、工夫が必要だ。


だいぶ前、大手百貨店で贈り物を選んでいたとき、お店の人が

「女性はローズの香りが好きなので」と言った。

わたしはローズの香りよりグレープフルーツの香りが好きだし、

「ローズの香りが好きな女性像」なんかにおさまってやるか、というひねくれた意地もあったけど、

やっぱりその瞬間、わたしは「正しい女性」から弾き出されてしまったように感じた。

よくよく考えれば、いろんな香りを好きな人がいるからこそ、香りもの商品はこんなに多様に展開されているんだけど。

というか、ローズの香りが好きな女性は、わたしがグレープフルーツの香りが好きなように、ただその香りが好きなだけであって、

別に社会における「女性」というイメージを形成するために「ローズの香りが好きな女性」をやってるわけじゃない。


生まれてはじめて買ったファッション誌が「Vogue」でよかった。

「Vogue」は絶対に、アイサレモテナンチャラとか言わない。

これは生きていくためのお守りの結晶だ。

ファッション誌がこんなに、哲学や芸術にもとづいたものだったなんて。

広告ページも隈なくじっくり見ているので、全然読み終わりそうにない。

この分厚いお守りを持って、わたしの好きなわたしを、探してゆこう。


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