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そうでもない命

もう随分と前のことになるのだけど、世界のいろんなところを取材するテレビ番組で、アマゾンのどこかの部族の生活が放送されていた。

文明を受け入れる部族もいれば、伝統的な生活を続ける部族もいるようだった。

放送できる範囲のギリギリを攻めるスタンスの番組で、かなり突っ込んだところまで扱うのがたぶん人気なのだと思う。

ある部族では、猿を捕まえて、捌いて食べていた。

さすがにというか、猿を捌くところは、ぼかしていた。

そのあと、別の部族では牛を連れてきて、部族のみんなで捌いていた。

牛を捌くところは、ある程度そのまま放送された。

(因みにいま調べたら、猿を捌くところが放送された回もあったようだった。)

この、猿と牛の間には、なんの違いがあるんだろう?
それが気になって、ずっと考えている。

断じて言うけれども、わたしは決して猿を捌くところを見たいわけじゃあない。

もしくは、猿を食べることを、残酷だとかグロテスクだとか言いたいわけでもない。

我々がファミチキを食べるように、彼らにはそれが生活なのだ。

でもやっぱり、もしその光景をつぶさに見たら、わたしもひょえーとなっただろうと思うのも、事実なのだ。

猿も牛も、さっきまで動いていたもので、そして人間に食われるということには一切関わりのないところで生きていたのだが、

牛が死ぬところは比較的まだ受け入れやすく、猿が死ぬところは(端的に言うと)怖い。

これはごく一般的な感覚なのだろう、と思う。

でも、この猿と牛の違いを、わたしたちは何を基準にどうやって判断しているんだろう。

例えば料理人が魚を捌くところは、大体どんな時間でも放送される。

生き物を殺すなんて残酷だとか、可哀想だとか言う人は、多くはいないだろう。

正確に言うと、残酷だと感じることもたぶんあるのだ。

ただ事実として我々は生き物を食べて生きているので、残酷だからってそれを糾弾したり、食べるのをやめようと言いだしたりは、大抵の場合はしない。

ところがどっこい、食べるのをやめよう、ということになる場合もある。(ヴィーガンなる人々がその例だと思う。)

食べたら残酷な生き物と、そうでもない生き物の違いはどこにあるんだろう。

鯨は知能が高いから食べちゃいけないという主張がある。

でも人間が気づいていないだけで、鶏や豚や牛も、米も小麦も、トマトもスイカも、実は恐ろしく知能が高いなんてこともあるかもしれない。

もし人間より高い知能を持つ存在が現れたら、我々はおとなしく食われるだろうか。

食べることだけじゃない。

ある種を保護する一方で、ある種を人間の生活を保持するために殺す。

一つの種であるわたしたちは、わたしたちの都合で種をランク付けしている。

人間の命さえ、ランク付けしているかもしれない。

あんなにかわいい子がこんな目にあうなんて。

まだ若いのに。

優しい人だったのに。

夢に向かって努力してたのに。

どうしてあの人が。

じゃあどの人ならいいんだ?

気づかぬうちにわたしたちは、可哀想な命とそうでもない命を見分けている、と思う。

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