29.『花火大会当日 北沢慧②』



 同日 北沢慧



 
火が燈る煙草が落ちてきて横髪をかすめた。
 誰かいる。あいつがいる。兄貴が上にいる。後ろを振り返る。誰もいない。大丈夫、奴らはまだ来ていない。
 兄貴が飛び降りた場所。すべてが狂ってしまったはじまりの場所。暗闇に、電灯がポツンポツンと光を刻む。ここは昔っから人気がなくて不気味だ。ヤンキーが溜まって煙草を吸ったり、淫猥行為をし合う場所として地元じゃ有名だからもう誰も寄り付かない。
 飛び降り事件があってからは幽霊が出るという噂も一時期流行った。できれば行きなくなかったこんな場所。音が軽い。階段を登っていく自分の足音が本当に軽い。
 欄干の側に人がいる。しおれて枯れてしまった向日葵みたいな長い髪と酷い猫背。
「なにやってんだよ」
「祭りはいいのか慧」
「なにやってんだよって聞いてんだよ」
 兄貴は欄干にもたれ、どこかを見ている。どうせ空も星も、地上さえ見えてないんだろ。
「待ってるんだ」
「天使をか?」
「読んでくれたのか」
「ああ読んだよ。気色悪くて全部は読んでないけど」
 兄貴はこっちを向かない。水をかけられてもすぐには消えない炎のようにしつこく、兄貴の黒っぽい頭部から煙が漂っている。
「危ねえから。そっから離れろ」
 兄貴は動かず、煙草を下に落とし次のに火をつけた。
「さっきモジャモジャ頭とモヒカンが家に来た。あいつら誰?」
「知らない」
「この日記を欲しがってた。ミサキさんって誰だよ」
「知ってくれてるのか? すごく嬉しいよ」
「あのさ、もういいかげんにしてくれねえかな。どんだけ俺たちに迷惑かければ気がすむんだよ。俺もう兄貴のことわかんねえ」
「わかってくれとは言わないがぁ、そんなにぃ俺が悪いのかぁ。昔の曲にこんな歌詞あったよな」
 兄貴の首を掴んでグッと体重をかける。兄貴の体は半分欄干から出、くわえていたオレンジは地面に急降下した。
「ヒ、ヒヒ、ヒヒ、ヒ、痛いよぉ、慧ぃ、ヒ、ヒヒ、離してよぉ」
「なにがそんなにおかしんだよ」
「怖いん、だぁ。笑って、ないと、ヒヒ、ずっと、わ、笑ってないと、一生笑えない気がしてさぁ。ヒ、笑ってないと、怒られてる気がしてさぁ、みんなに。に、に」
 空箱の眼からたくさんの涙を流し兄貴は口だけで笑っている。唇まわりの泡が手にしがみついてくる。
 このまま力を入れ続けたらこの細すぎる首はへし折れる。折れてしまう。
「ヘヘへ、へ、ヘヘ。やるならやるがいいさ。ひ、ヒヒ、お前は俺の仲間入りだ」
「なんであんなことしたんだ!」
「うるさいんだよ。やれ、ほら。やってみろって。お前にはできっこないって。俺を笑うんだよ、慧を笑うんだよ。だから、ヘヘ、ひ、ヒヒ、ハハハ、やったのさあぁ! 誰でもよかったのさぁ! もうミキはいないから! だから別にお前でもよかったんだぜ!
 首を欄干から引き抜いてそのまま床に叩きつけた。
 涎が顔にへばりつく。兄貴の髪が床を這いずっている。ムカデみたいで気持ち悪い。首にかけた手があったかい。兄貴の両手が俺の手首を包んでる。
「お願いがある。俺を殺してくれ」
 視界が滲む。
 合ってるはずなのに合ってない眼。兄貴はもうずっとこんな悲しい眼をしている。
「誰かが死ぬことと、誰かが生まれることは、誰かに影響力がある、と思う」
 兄貴の理由の無さそうな笑い声は寺塔の中でゆっくり響く。
「重いんだよきっと命は。犯罪に対して絶対やっちゃいけないとか俺が言えることじゃない。だけど、やっちゃいけない理由を一つだけ言っていいなら、周りの人が傷つくからじゃないのか?」
 笑い声が響く。兄貴とそれ以外の人間が俺を嗤っているようだ。それでも続ける。
「自分自身だってすごく悲しいと思うんだ。苦しいと思うんだ。お互い苦しくて悲しくて、こんなこと、実行する意味なんてあんのかよ」
「じゃあ悲しんでくれる人が誰一人いなかったらどうする? 自分だけしか自分を理解してあげられない孤独なやつはどうすればいい? 仲間外れか?」
「そんな悲しいこと言うなよ! そんな悲しいこと頼むから言わんでくれよ兄貴。いるに決まってるだろ。家族がいるじゃねえかよ。少なくとも兄貴にはまだ俺達がいるじゃねえかよ。なんで、なんでそんな当たり前のことがわかんねんだよ!」
 確かに兄貴の言うように、自分だけしか自分を理解してあげられない孤独なやつの理解者にはなれないのかもしれない。俺には家族がいて、谷田たちがいて、部活の仲間がいるから。
 でも、兄貴のことなら、まだ、ほんのちょっとなら理解してあげられる気がしてるんだ。もっと話して、昔みたいに一緒に遊んで、一緒にごはん食べて、それで家族で寄り添い合って、支え合って。兄貴の苦しみを完全には背負えないけど兄貴のこともっとわかろうとすればわからないこともわかってくるはずなんだ。
「お前のせいで死にたくなくなった。でも、もう、ここにはいられない」
「大丈夫だって。まだ間に合うさ。兄貴さ、前に言ってくれたよな、お前は俺が守っちゃるって。俺さ、たぶん兄貴にたくさん守られてきてさ、それを俺は知らないふりしてた。兄貴覚えとる? 俺がボール蹴り損ねて怪我したときみんなは馬鹿にしたけど兄貴だけは、兄貴だけは俺のこと心配してくれちょったやろ?」
「覚えてない」
「俺あのときすげえ嬉しかった。ああ、やっぱり兄貴ってかっこいいんだなって、俺の自慢の兄貴だなって」
「俺はお前の自慢の兄貴なんかじゃない」
「自慢の兄貴だよ! 誰にも馬鹿にさせないかっこいい兄貴なんだよ! 俺はそれに気づいてたのに言えずにここまで来てしまった。こんなところまで追いやってしまった。わがままもたくさん聞いてくれた、欲しかったカードも食べたかったお菓子も兄貴が我慢してくれてたんだろ?」
「覚えてないよ」
「終わってたのは兄貴じゃなかった。終わってたのは兄貴のことすぐに諦めて放り出した俺たち家族の方だった。ごめんな兄貴。俺、兄貴が全部悪いって思ってた。兄貴が全部壊したって思ってた。でも兄貴だけのせいじゃない。これは俺たち家族のせいでもあった。だからさ、兄貴がやってくれたように今度は俺が兄貴を守る。だから頼む、自首してくれ」
 響く声はどこかに消えた。兄貴はもう笑っていない。表情が無い。ただ手首はあたたかい。兄貴の体温が両腕に集まっている。橙色の蛾が、兄貴と俺の真ん中を通り抜けゆっくりと電灯にぶつかった。
「家族には迷惑かけた。もう、戻れない。このまま進み続けるしかない。放火とか万引きとかいけないことたくさんやった。だからこの町に居場所は無い。俺の居場所は慧じゃない。家族じゃない。この町には最初から居場所なんか無かったんじゃないかって思ってる。ひたすら探した。仲間のいない三蔵法師が、一人でに天竺探し回るみたいに。でも見つからなかったよ。居場所は確かに見つからなかった。だけど一人、見つけたんだ。やっと見つけたんだ。良いやつなんだよ。孫悟空でも沙悟浄でも猪八戒でもないけど俺は美咲と天竺を目指すよ。俺は今日、この町を出る」
「本当にこの町出るんなら、出てくってんなら俺はこの先、兄貴を絶対に許さない。時が経って母さんや父さんが兄貴を許せたとしても俺が許さない。俺だけが一生許さない。なあ、本当は償うつもりじゃなかったのか今までのこと。日記に書くってことはそういう気持ちがまだあるってことじゃないのか? そうだとしたら手伝うから俺、やり直そうよ、この町で、なあ、にいちゃん」
「"俺"じゃなくて俺の代わりに"家族"を守ってくれ。俺はどうでもいいから。慧、母さんと、父さんを、頼んだぞ。家族のこと、頼んだぞ」
 腹が痛んだ。意識が薄れてく。真っ暗だ。なにも見えない。音だけする。階段を降りる音。きっと兄貴になんかされたんだ。

 クソ、本当に真っ暗だ。なにも見えやしない。いや、なにか、見える。なにか、飛んでる。さっきの蛾だ。光を放つ橙色の蛾がこの真っ暗な闇を切り裂いて遠のいてく。


 待ってくれ、行かないでくれ。俺はまだなにも、兄貴のためになにも、なんにもできちゃいない。


 –––このメロディーじゃ優しくて起きれんばい

 あの頃の兄貴の声。特別朝が弱い兄貴の前向きな声。




 音楽が、聞こえるような気がする。これは、にいちゃんが昔っから大好きな、オアシスの、代表曲。





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