微熱
カンパニュラ @hanatootya 作
8月の茹だるような暑さになかなか馴染めない自分がいる。
この世に生を受けてからもう17年も同じ季節の流れを繰り返しているはずなのに、年々過ごしにくい印象が思い出とともに増えていく感覚がある。
昔から僕の中には、夏に対する苦手意識めいたものが厳然と存在する。
夏に何か固有の嫌な思い出があるわけではないのだけれど、どうしても好きになれないのはこの連日の暑さのせいだけではないと思っていた。
昼下がり、なんの変哲も内の風景の一角で僕はヤヨイのことを待っていた。
蝉の鳴き声がやけに耳元の近くでこだましているようだ。
僕が先に到着してからすでに10分ほど待っていた。
こういう時に、彼女はいつも何らかの理由をつけて僕らがあらかじめ指定した集合時間に遅れることが多かったし、僕自身もそういったことには慣れてしまったので特に気にはならなかったが、以前は遅れて来たことを棚に上げて、やる気がないように見えたらしい僕の態度を非難するヤヨイの態度に少々戸惑うことも多かった。
僕がやる気のない態度を見せてしまっていたのは、ヤヨイに対して何か思うところがあったからではなかったのだけれど。
陽炎が揺れる遠く向こうから、小走りにかけてくるヤヨイを見た時、自然に自分の顔が綻ぶのがわかった。
目に馴染んだ光景だった。
ヤヨイは慌てたように流れる汗をそのままにこちらに来ている。
遅れて来たことに対する不安ばかりをその表情に滲ませ、他の同級生が遅れて来た時などに見える、自分の非を棚に上げた自分勝手な傲慢さなどは微塵もなかった。
衒うところのない彼女の純粋さが、僕は好きだった。
両手を頭の前で合わせながら、僕の前で、そう言って詫びた。
僕は静かに首を横に振り、そう言って、なおも申し訳なさそうなヤヨイを促して歩き出した。
通っている高校はすでに夏休みに入っていた。僕ら二人は同じ学校に通っているのだが、部活動などにも所属はしていないため、本来であれば登校日までを合わせることはないはずだったが、僕らは何かと理由をつけて休みの間中、よく会っていた。
と言って、行くところと言えば近所の公園や図書館などの公的な施設か、本屋や喫茶店などの屋内がほぼお決まりだった。
今日は図書館に行くつもりで、ヤヨイから声をかけられた。
その3日前は僕が声をかけて二人で本屋に行った。
道中はいつも、取り止めのない話をしながらリラックスして歩く。
昨日あったこと、今日ありそうなこと、最近見た映画や読んだ木、気になっているニュースや芸能人のあれこれ。
僕が流行に疎いぶん、テレビや権誌から知識を持ってきたヤヨイが会話の舵をとり、年相応に溌剌としたやり取りを交わしつつ、目的地にのんびりと向かっていく時間が好きだ。
僕らは幼稚園の頃からお互い家族ぐるみで付き合いがあるため、紛れもない幼馴染なのだが、幼馴染という関係にありがちな、所謂腐れ縁じみた明け透けでどこか投げやりなやりとりは僕らの間にはなかった。
これまで目立った喧嘩もなく、関係を複雑にする出来事や、距離を置こうと考えた場面もない。
これまでを知る共通の友人たちが殆驚いてしまうくらい、僕らは今まで絶え間なく、ずっと仲が良かった。
彼女の口から一週間後の花火大会の話が出たのは、図書館が眼前に見えてくる道に差し掛かった頃だった。
「去年、ひーくんと行ったとき、本当に大きな花火が打ち上がったよね。あたしあの時、めちゃくちゃびっくりして、思わず耳塞いじゃったもんね」
そう言われて、はたと思い出した。
昨年も彼女と二人で花火を見に行ったことを。
地元ではかなり古くから開催されている大きな祭りであり、県内外から見物人が集まるため、例年道には交通規制が敷かれ、会場付近は人でごった返すのが常だった。
一番の見どころは20時から打ち上がり始める花火、その後に打ち上げられる三尺玉。
かなり音も派手に鳴り、場所によっては生じた場風の後が見物人まで届くほどのものだ。
昨年、初めてヤヨイと二人きりで見に行った時はかなり良い席に陣取ったこともあり、目前に輝く花火、そのあまりに規格外な音と大きさに驚きのあまり固まる僕に、ヤヨイが涙目で縮り付いてきた。
思い出して、微笑んだ。
「あれはすごかったね。本当にびっくりした」
僕の言葉を聞き、ヤヨイがにっこり笑った。
「ひーくん、固まっちゃって身動き取れなかったもんね」
その言葉に、思わず赤面をする。
赤くなったのであろう僕の私を見て、嬉しそうに笑いながら、ヤヨイは言った。
「今年も行くでしょ? 来週。今度は心構え、できてるし」
その瞬間、どきりとした。
当の本人に他意はなかったのだろうが、またも僕は昨年の一幕を思い出していた。
彼女が三尺玉に大いに驚き、隣で呆然としている僕にしがみついてきた時、僕らの周りではカップルで来ていた人たちでごった返していた。
皆一様に、眼前に迫るロマンティックな光景に酔いしれながら、この状況を一人きりでいることを確かめ合うために利用してもいた。
そして、そのような状況下にいることを僕も、恐らくヤヨイもしっかりと了解していた。
三尺玉が落ち着いて、当初はまばらだった拍手が人きくなっていき、間も無く静かになった後もヤヨイは僕から体を離さなかった。
流石にその頃には我を取り戻していた僕は、 依然として僕に密着したまま動きのないヤヨイを軽く訝り、すぐに緊張で体が再び固まることとなった。
彼女の体は、ほんのりと熱を帯びていて、それは気温のせいだけではないことを僕はすぐに悟った。
ぎこちなく首を動かして、ヤヨイを見た。僕の動きと連動するように、ヤヨイも顔を上げて僕を見た。
その目は、潤んでいた。
いつも笑顔が浮かんでいる顔は何かを憂いているような、どこか悲しそうな表情だった。
その顔を見て、内心僕はまたショックを受ける。
その頃には、僕らはお互いがおがいに対して思っている感情、それが世間的にどう言った感情に分類されるのかをよく理解していた。
理解した上で、僕らはまだ付かず離れずの関係を続けていた。
友達以上、恋人未満。
一言であっけなく表せてしまう僕らの関係性は、一方でそんな単純な単語では到底表せられないくらいの複雑さを、それこそ僕らがお互いをそういった意味で意識し始めて以来、保ち続けていた。
そして、その曖昧なまま滞留していた関係の原因はヤヨイではなく、明らかに僕にあった。
僕には僕なりに、彼女に明確な思いを伝えられない事情があったし、その事情を誰よりも僕のそばにいたヤヨイもとふくわかっていたと思う。
だが、思春期の、それこそ夜毎に新しく生まれ得る得体の知れない感情、その原因も名前も判然としないような危うい年代の僕らだ。
現実に起こっていないことを持って、 自制を続けろというのは酷な話であることも、お互いよく理解していたのだった。
ただ、そんな内面の苦悩の様を、僕らは普段からお互いに対しておくびにも出してはいなかった。
それはその感情が僕らに共存すると互いに自覚した瞬間から、どこかで口に出してはいけないこととして自然に認識され、次第に僕らの間で半ば禁忌にすらなりつつあった。
友人間で色恋沙汰が話験の半分以上を占めるようになっても、僕らはお互いの関係を「友達」と称し続けていたし、それはどちらかといえば僕が先頭に立ってその認識を誘導していた。
僕が「友達」と称するたびに、傍にいたヤヨイがどこか物悲しそうな表情を見ることにも、気づかないふりをしていた。
その日、花火大会終了のアナウンスが鳴り、周囲に居た観客が一斉に出口に向かって歩いていく中で、僕らは黙ったままお互いのを見つめ続けていた。
辺りは喧騒で満ちているはずなのに、少なくとも僕にはその音が聞こえてこなかった。
それはヤヨイも同じだったと思う。
僕らはお互いを見やったまま、しばらく密着し続けていた。僕らの横を通り過ぎるカップルらしき人たちが、僕らのことをクスクスと笑いながら見ているのが横目に見えた。
「・・・・・・・ねえ」
どれくらいそうしていたかわからなくなってきた頃、唐突にヤヨイが口を開いた。
頭は、憂いを帯びたままだ。
「どう、したの」
僕は辿々しく尋ねた。
僕の声を聞いたヤヨイが、僕の服をギュッと掴んだ。
ハッとするほど強い力に、少し動揺する自分がいた。
「花火大会・・・・・・終わっちゃったんだよ」
ヤヨイがか細い声でそう繋いだ。
その時点で彼女の言わんとしていることは、大方察しがついていた。
ただ、僕にはどうしてもそのことを伝える気がなかった。
だから、黙ったままヤヨイを見つめ、ややあって、取り繕うように微笑んだ。
そして、指先で出入り口をさし示し、弱々しい声で言った。
「出口、混んじゃうからさ」
僕はその時、自分のことをこれ以上無いくらいに覗く、愚かだと思ったけれど、同時にそう言った自分を正解なのだと褒めてもいたのだと思う。
そんな中途半端で情けない感情のまま、促すようにヤヨイを見ていた。
その時のことが、ありありと思い出されて少しく閉口してしまった。
規定事項となった来週の祭りのことを軽く打ち合わせながら、辿り着いた図書館で本を読み、夏休みの宿題を進めている最中も、その後に来た道を戻ってヤヨイと別れた後も、僕の頭の中はあの夏の一幕を反芻し続けていた。
それは、僕らがどこかで区切りをつけなければならない問題だったが、何かしらの区切りがついた後には当然のように、僕らがそれまでと同じ関係ではいられないだろうという事実が、僕自身をきつく縛り続けていたのだった。
僕は幼い頃から、ずっと体が弱かった。
未熟児として生まれて以降、効少期からことあるごとに病院の世話になり続けていた。
普通の児童であればすぐに治せてしまう風邪も、僕にとっては命に関わるような重大な病気だった。
現に一度、通常の人であれば3日ほどで寛解する病気にかかった時は意識を失い、直ちに入院を余儀なくされ、丸一週病院のベッドの上でうなされる羽目になった。
小学校に上がってからも虚弱児として6年間を過ごし、運動会やプール、マラソン大会など、行事という行事をほとんど見して過ごした。
人並みの楽しみが味わえなかったことに対して、最初こそ不満からくる涙を抑えられず、責任を両親に転嫁して喚いたりもしていたが、小学4年生にもなると自然と諦念が芽生え、自分に課せられた体質と未来を自ずと甘んじて受け入れるようになっていた。
連日、両親から買い与えられた本を読んで過ごし、休みの日は家に引きこもり気味だった。
そんな僕にとって、ヤヨイは文字通り太陽のような存在だった。
小学生の頃から明るく活発で、頭も良かった。
誰に対しても分け隔てなく接し、それは 僕に対しても同様だった。
初めて出会った幼児の頃から何かと僕の世話を焼いてくれて、小学校に上がってからも登下校はもちろん、休み時間もよく側にいてくれた。
ヤヨイはそうでは無いと思うが、僕は6年間を辿して紛れもなく一番話をした人がヤヨイだった。
僕は多分、ヤヨイが僕に対して気持ちを持つより先に、彼女のことを恋愛対象として意識していた。
そう言うと、ヤヨイは否定するだろうか。
中学生になってからは、同級生の間で男女間のあらゆる構造の違いが意識されるようになり、自然と男女が別々のグルーブを作って行動するようになったが、そんな状況下でも 僕らの仲が変わることはなかった。
僕らは不思議なくらい純潔に、お互いに惹かれていた。
プラトニック・ラブと言うにはいささか未熟で、自覚にも乏しかった僕らの感情は、顔を合わせるたびにお互いの間で強まっていき、いつしか二人をこの先もずっと繋ぎ止めるための切実な理由に転じようとしていた。
その流れを、僕はあの日、確かに堰き止めてしまった。
夕食を済ませ、部屋で一人きりベッドに体を預けて黙想した。
あの日、花火が打ち上がり終えた後、僕はヤヨイに一体どんなことを言えば良かったのだろうか?
いや、そんなことはわかっている。そんなことは、僕がヤヨイを意識し始めた小学校6年生の頃からずっとわかりきっているのだ。
僕が何を言わねばならないのか、ヤヨイが僕に、なんと言って欲しいのか。
悶々とした感情が膨らむ一方で、たまらず体を起こして本日から一冊出鱈目に選んで手に取った。
さまざまな宗教観をわかりやすく記したオカルト本だった。
ぼーっとしながら ページを無造作にめくっていると、とあるページに行き着いた。
「輪廻………………か」
ポツリと呟いて、ゆっくり読んでみた。
自分で買ったのか、親に買ってもらったのか判然としない本だった。
そのページもじっくり腰を据えて読んだ記憶がない。
初めて読む感覚で頭に言葉が入ってくる。
不滅の霊魂は、身体の死後、さまざまな生に生まれ変わるという。
その書籍自体は中高年に向けた単なる娯楽本だったが、その項目だけ妙に僕の頭に残った。
人は今世で死んでも、生まれ変わって新たな生を受ける。
そんなことが本当にあり得るのだろうか。
もしそうだとして、僕とヤヨイは、生まれ変わったらどうなってしまうのだろう?
一週間はあっという間に過ぎてしまった。 花火大会の当日、僕らは昼過ぎに最寄りの駅で集合して、電車に乗って会場まで行くことにした。
昨年と同じ、二人きりだった。
もはや昨年の記憶をありありと思い出してしまった今、どうしてもこの状況を意識せずにはいられなかった僕は、前日から緊張であまり食事が喉を通らなかった。
当日、駅には珍しくヤヨイが先に来ていた。
僕は軽く驚きながら、元気よく僕に向かって手を振るヤヨイに片手を上げて答えた。
僕らは問も無く到着した電車に乗り、会場の最 寄りに到着するまで取り止めのない話をして過ごした。 ふと、昨日読んだ本のことを思い出し、話題が途切れた折にヤヨイに伝えてみた。
「昨日、変な本を読んだんだよ。輪廻転生みたいな」
「何それ?」
神秘的なことが大好きなヤヨイはこの話題にすぐに食いついてきた。
催促されるがまま、その本や該当ページのことを伝えて、言った。
「人は死んでも、その魂はそのままに、次の世界で新しく生を受けるんだってさ。・・・・・・ 普通に信じられないけど。でも、なんか、そんなのを全部否定するのも、違う気がするよね」
僕のこの言葉を聞いて、すぐにヤヨイが僕に言った。
「どうして?」
その声がやけに真剣だったので、思わずどきりとしてしまった。
僕は言葉を選びながら、続けた。
「なんかさ、僕らが見えないってだけで、実際にあるかどうか確かめようがないものを 一様に否定するのは、真っ当な人としての姿勢としては違うのかなって。上手く言えないけど、人が見えない、証明できないものでも、この世にちゃんと存在するものって確かにあるんだろうなって」
僕が言葉を続けるに従って、ヤヨイの表情はどんどん憂いていった。
ちょうど一年前のあの日のように。
「どうして、ひーくんはそう思うの?」
先ほどと同じ問いを、ヤヨイが繰り返して僕に言った。
そして、僕が何か答える前に続けた。
「あたしは、輪廻がどうとか、今まれ変わりがどうとかって、難しくてわからないし、ひーくんが言ってること、全部正しいって思うよ。見えてないものを頭ごなしに否定しないって、人としてすっごく正しい在り方だと思う。でもさ」
そこで言葉を切り、まっすぐ僕をみた。
「見えてないことと、見ようとしてないことって、絶対違うでしょ?」
瞬間、あっ、と思った。
僕は明らかに狼狽えながら目の前のヤヨイを見返した。
電車内アナウンスが、間も無く花火大会の会場の最寄りに着くことを知らせていた。
額から、暑さなのかそうでないのか判断のつかない汗が、流れて、落ちた。
「あたしは、生まれ変わりって、あって欲しいって思うよ。存在してて欲しい。そうしたら、来世であたしも、ひーくんも、もう一度生きていけるってことでしょ? そうしたら……」
そこで言葉を切って、思い切ったように、言った。
「ひーくんだって、今とは違ったひーくんに、なれるかもしれないよね?」
僕は、黙ったままヤヨイを見つめ続けていた。愕然としながら。
「・・・・・・ヤヨイは」
ヤヨイがこんなことを言って欲しいわけじゃないことは、重々わかっていたけれど。
「生まれ、変わりたいの?」
気づけば、僕は間抜けにもそう聞いていた。
ヤヨイが憂いをこれ以上ないくらいに深くした顔で、僕をじっと見ていた。
そして諦めたように僕から顔を逸らして、言った。
「違うよ・・・・・・」
そして、小さくため息をついて、ゆっくり席を立った。
「なんだか、切ないよ」
気づけば、電車が完全に停車していた。
会場の寄り駅で、ゆっくりドアが開いた。
もうずっと判然としない関係性に限界を感じていたのだろう。僕らはお互いに。
到着するや否や、黙ったまま僕を置いてヤヨイは早足で会場の方へ向かってしまった。
その目には、涙が浮いていた。
僕は追いかけようと思ったが、今日に限って明朝から微熱のような症状が体にまとわりついていて、上手く走れる自信がなかった。
症状自体は普段からたびたび発症していることであったが、こう言った場合、少しでも無理をすると翌日にあらかさまに響いてしまう。
自らの体質を熟呪った。
それはこれまで幾度も僕が繰り返してきたことだった。
ノロノロと電車を降り、故札をくぐった頃にはヤヨイの姿はどこにも見えなくなってしまっていた。
僕はため息をついた。
これから、どうすればいいのだろうか。
目的を見失ってしまい、当てがもなく駅の辺を歩いていると、花火大会の会場からほど近い距離に位置する場所に、一軒の寺がぽつんと立っているのが見えた。
ヤヨイがいたら目を輝かせて入るだろうな、と思った時、なぜだか妙に惹かれてしまい、気がついたらその寺に足が向いていた。
境内には幕を待って掃除に勤しんでいる住職と思しき男性の姿が認められた。
僕はゆっくりとした足取りで賽銭箱の前にたち、ポケットから小銭を数円取り出し、投げ入れた。
そのままゆっくり手を合わせてみた。
何を願えばいいのかもよくわからなくなってしまっていた。
とりあえずと言った具合に、 ヤヨイが元通り戻ってきますように、とお願いし、そんな自分に瞬時に嫌気がさした。
元通りってなんだ。
一体どうなったら元通りなんだ?
僕は一体いつまでこんな関係をごていくつもりなんだ?
知らず知らずため息をまたついてしまった。
口を開げて顔を上げると、いつの間にか隣に先ほどの神主が新を持ったまま、流れる汁をそのまま、微笑みながら僕をみていた。
「お疲れ様です。暑い中よく来てくださいました」
僕は曖昧に頷いた。住職は、30歳を少しく過ぎたように見え、落ち着きと若さが素敵な塩梅で同居していた。
僕が績の汗を無意識に拭いていると、住職が言った。
「よろしければ中にお上がりになって、お茶でもいかがですか?おそらく花火大会に参っていらしたのでしょう?この暑さですから、花火が始まるまで涼んで行かれてはどうでしょう」
唐突な住職の申し出に、僕は少し戸惑い、黙考した。
ヤヨイのことを放って一人でいるこの状況に、すでにかなり不安を感じ始めていた。
酷暑の中、この体調でヤヨイを探し て歩きつめるのはなかなかの苦行だったが、そのまま帰ってしまうわけにはどうしても行かない。
一刻も早くヤヨイと合流するため、丁重にお断りすることに決めて、僕は口を開こうとした。
「ありがとうございます、でも、せっかくなのですが・・・・・・」
「あら、お客様ですか?」
僕が断りを入れようとしている時、寺に併設されている家屋から住職と同年代と思しき女性が顔を出した。
住職が振り返って、笑顔を浮かべた。
「やあ、この暑い中、お参りに来てくださったから、お声をかけていたところだったよ」
女性は「まあ」と驚いた様子を見せ、スリッパを履いてこちらに向かってきた。
なかなか複雑なことになったと思っていると、女性は僕らのそばまで来て、にっこりと微笑んだ。
「ぜひ、上がっていってください。お手間は取らせませんし、少し、お茶だけでも」
そう言って、自然に僕の手を取っていた。
住職はすでに家屋に向かって歩き始めていた。
かなり大仰なことになったと思いながら、僕は逡巡ののち、諦めて大人しくついていくことにした。
「輪廻転生、ですか」
目の前に出していただいた冷たいお茶をみながら、僕は住職夫婦と話し込んでいた。
当初はかなりの不安を覚えていた僕だったが、話してみるととても穏やかで知的なご夫婦で、花火大会の30分前まで涼までもらえることになった。
その合間に、僕はヤヨイに携帯で自分が今いる場所と、この時間に会場前で待ち合わせたい旨を連絡していた。
ヤヨイからの返信はなかった。
今回のことは特に、彼女の中で相当堪えているようで、言いようのない罪悪感と無力感に落ち込んだ。
ご夫婦が僕の様子を心配してくださったことをきっかけにして、これまでのことをご夫婦に話すこととなった。
真剣に耳を傾けてくれていた住職は、一通りの話を聞いて、先ほどの言葉をポツリと呟いた。
奥様がクスリと笑う。
「私にも覚えがあるわよ、この感じ、懐かしいわね」
そう言って愛おしげに住職の方を見ていた。僕は不思議な眼差しで二人を見つめていた。
住職があははと笑った。
「実は僕も生まれつき体が弱くてね。この人とは小学生の頃からの付き合いだから、言ってみれば僕たちも幼馴染なのですが、僕の体質のせいで妻にはいろいろと気苦労をかけました」
「あら、今も気苦労だらけよ」
住職の言葉に、悪戯っぽい口で奥様が答える。
軽妙なやり取りに心が和んでいくのを感じていた。
「ヒナタくん、あなたと僕は、色々と共通点が多いみたいですね。・・・・・・でもそんなに過度に心配なさらないで。
お互いの大学卒業と同時に僕らは結婚して、今でもこうして夫婦をやっていますから」
そこで言葉を切り、す、と口を細めた。
「あなたは・・・・・・ヒナタ君は、自分がいつ、体調などの問題でこの世界から消えてしまうのか、わからないでいる。だからヤヨイさんとの関係を深めたくない、ということですが、それは果たしてそうでしょうか?」
ハッとして僕は住職を見た。
隣の奥様は口元に笑みを浮かべて黙ったままだ。
「人は変わっていく生き物です。お二人の気持ちが年齢を経るごとに変化していったように、すでにお二人の関係は変わっていっている。それは、当人たちが意図的にコントロ ールできないことだと僕は思うのです。だからこそ人間は色々な諍いを起こしもするし、 愛を育んで行きもする。諍いや愛は、ずっと固有の、同じ形で存在することはありえないのです」
僕はぎゅっと手を握った。
汗が手のひらに浮いているのがわかる。
「もっと言えば、人間はだからこそ、ここまで進化をすることができた。現在の僕らがいるのは、絶え間ない先人たちの、変化の賜物です。ただ、ヒナタ君は変化を恐れている。 そしてそれは、自分の体調のせいであると信じようとしているが・・・・・・それは本当にそうですか?」
僕の額を、汗が一筋、伝った。
彼は、住職はじっと僕を見据えて、言葉を繋いだ。
「あなたが本当に恐れているのは・・・・・・ヤヨイさんに、他ならぬヒナタくんご自身が受け入れられず、置いて行かれてしまうことなのではないのですか?」
夕暮れが街を、花火大会の会場を包む中、住職大婦の家屋を辞した僕は急にで会場へ向かっていた。
流れる汗をそのままに、微熱様の症状が体を蝕んでいる。
この調子で急ぎ続けていれば、明日はあまり動くことは叶わないだろう。
だが、それでもいいと思った。
そんなこと、自分の今の体調よりもずっと大切なことを、僕は見ていなかった。
ヤヨイが、中学を卒業する手前から、永らく別の男子に言い寄られ続けていることを僕は知っていた。
優しいヤヨイは、その性格や見た目から中学生になった頃から男子徒からの人気が高まり、僕といない時は必ず誰かが側にいた。
そういったことに対して、僕はどう思っていたのだろうか?
僕は中学生に上がってからも依然として体調は安定せず、頻繁に欠席や保健室通いを繰り返していた。
男女別れての授業が増えてきたこともあり、必然的に小学生の頃よりお互いが側にいる時間は減っていた。
それでも仲が良かったのは、ヤヨイが能動的に僕のそばにいようとし続けてくれたからだ。
だが僕は、そんな状況下において、僕は心の中でずっと恐れ続けていた。
何を?いつか、ヤヨイが僕に愛想を尽かして離れていってしまうことを、だ。
ヤヨイに言い寄っている男子は、中学校の頃から活発で、水泳部のキャプテンを務めているような生徒だった。
僕らと同じ高校に入学してからは、生徒会の副会長を務めている。
僕とはあらゆることが真反対な存在。僕より通かに生命力が強く、浣刺とした存在。
中学生だったある日、下校前に学校の門の前で、ヤヨイと彼が親しげに話しているところを偶然見て以来、僕はそれ以前に生まれていた自分の恋心にそっと蓋をした。
僕よりも、彼といた方がヤヨイが幸せになる。
長期的に見て、ヤヨイのためになる。
そう信じ続けていた。
でも、それは本当に、僕の本心なのか?
ヤヨイは本当に、それを望んでいるのか?
汗みずくになって会場に到着した頃には、19時30分だった。
会場は、昨年のあの時 と同じく人でごった返している。僕は携帯を見た。
ヤヨイからの返信は返ってきていなかった。
もどかしい思いを抱えながら、僕はこの膨大な人の中から、ヤヨイを見つけ出すことを決めた。
ヤヨイを探しながら、先ほど住職大婦がってくれた言葉を思い返していた。
「生まれ変わり、輪廻転というものは、私たちにとってとても身近な言葉になりました。どこか現実感がないが、人の考え方次第で希望にも、絶望にもなる言葉だと思ってい ます。……………私は」
そう言って住職はにっこりと笑って言った。
「来世で一緒になろう、なんて、本当に馬鹿らしいことだと思っています」
増えきれないように、隣の奥様が笑った。
僕はポカンとして二人を見つめていた。
住職は頭を恥ずかしそうに掻きながら
「だってそうでしょう。自分が本当に大切な人を、今世で幸せできないだなんて、本当に不幸なことだと思いませんか? 僕は、そう思います。来世や輪廻は、確かに神秘的な考え方です。僕ら人間の想像を遥かに超越した神秘性がそこにはあると思う。でもね、僕ら人間にとっては、今しかないんです」
呆然としている僕に向かって、住織はとても優しく微笑んだ。
「今、この瞬間の連続でできている僕らが、今、目の前にいる人を心から大切だと思う気持ちを、どうか、忘れないで」
20分程度、探し続けていた。
貧弱な僕の体はすでに悲鳴を上げつつあった。
汗はひっきりなしに額を流れ、袖で拭いながら会場を探し続けた。
「ヤヨイ!!」
自分でも驚くほどはっきりとだが出た。
僕の声を聞いたヤヨイが、ハッとしてこちらを向いた。すぐに眉毛がハの字に曲がる。
「ひーくん・・・・・・」
そして、見つけた。
例の男子、徒と一緒に笑っているヤヨイを。
僕は瞬間、脱力しそうになった。
彼は乾しげな瞳でヤヨイに話しかけ、時には肩口にそっと触れるなど、側から見たら恋人同上だと言っても差し障りがないほどの距離感でヤヨイに接していた。
ヤヨイも、笑っている。だが、付き合いの長い僕には、その頭に少し憂いが見えた。
その憂いは、今日の電車で、昨年の夏祭りで、僕に見せた表情と同じだった。
そのことに気づいた時、考えるより先に体が動いていた。
隣の男子は、誰だこいつ、と言ったような話しげな顔を作って僕に向け、すぐにヤヨイを見た。
「ヤヨイ、知り合い?」
そう言って、ヤヨイの肩に触れようとした。
僕はヤヨイに近づいて、その手を握った。
できる限り、強く。
ヤヨイが本当に驚いたように僕と、その手を見た。隣の男子は呆気に取られたような顔で僕とヤヨイを見比べている。
僕はじっとヤヨイを見た。
そして、あの憂いの表情が再び浮かぶ前に言った。
「行こう」
会場の中を進んで行った。
僕ら二人、手を繋いだまま。
20時が目前に迫っていた。
花火がもうすぐ始まるアナウンスが会場に響き、楽しみにする観客の嬌声であたりは満ちている。
昨年陣取った常は、運良く今年も空いていた。
僕は何も考えずにその場所に進んで、陣取った。
その時点で、僕は体力をかなり消耗していた。
場所の確保ができた途端に脱力感が襲ってきて、僕は膝をついて大きく息を吐いた。
ヤヨイが慌てたように僕の背中をさする。
「大丈夫? ごめんね、連絡、全然できなくて・・・・・・会場ですぐにあの子が話しかけてきて、携帯を見る暇なくて」
僕は必死で息をぼえながら、大きく前を左右に振り続けた。
「あたし、本当にどうかしてたね・・・ ・・・こくん体、気をつげないとい行ない立場なのに、一人で勝手に電車出たりして・・・・・・・・ひーくんの世話をほったらかしにして、あたし一人で」
ようやく息が整ってきた僕は、ヤヨイの言葉を遮った。ヤヨイがハッとして黙る。
「ヤヨイは、僕のお世話をするために今までそばにいたの?」
僕はゆっくり体を起こして、ヤヨイを見た。
ヤヨイの瞳が再びハの字を作っている。
「僕の体が弱くて、たまたま幼馴染で、ずっとそばにいたから。僕はヤヨイ以外に頼れる人がいなくて、ヤヨイがいなくなるとクラスにも馴染めないから。だから、自分がお世話しないといけないって、仕方なく僕と」
「違う!」
身近にいた人たちが何人か振り返って僕らを見た。
ヤヨイは震えていた。
その目にはうっすら、涙が浮かんでいる。
電車の中で見た時と同じように。
「あたしは仕方なくひーくんと一緒にいたんじゃない! あたしは、ずっと、ずっと」
それ以上言う前に僕はヤヨイを抱きしめた。
ヤヨイの体が瞬時に強張る。
お構いなしに僕はヤヨイの体を抱きしめた。
体が驚くほど熱い。僕の微熱と、彼女の体温が混じり合っていく。
「変わってないのは僕だけだったんだ」
僕はそっと言った。
ヤヨイの体から、ゆっくり力が抜けていく。
「ヤヨイの言う通りだよ。僕は見えてなかったんじゃない。見ようとしていなかった。ずっと、ずっと怖かったんだよ・・・・・・ヤヨイが、僕を置いてどこかに行ってしまうことが」
ヤヨイがまた震え出した。
両手が、そっと僕の背中に添えられる。
「ヤヨイがいつか誰かと結ばれて、僕のいないどこかで幸せになることが、ずっと、怖かったんだよ・・・・・・でも、それは同時にいいことなんじゃないかって、思ってた。僕はこんなだから、ヤヨイをずっと幸せにできるかどうかなんてわからないし、ひょっとするとヤヨイが一人になってしまうかもしれない、それが怖かったことも事実だよ。僕は、怖がってばっかりだね」
ヤヨイは何度も、違う、と呟くように言いながら、僕の肩に願を埋めて泣いた。
僕はヤヨイの頭をゆっくりと撫でた。
ヤヨイは、本当に綺麗だと思った。
「好きなんだ」
気づけば僕ははっきりそう言っていた。
ヤヨイがすぐに僕に顔を向けた。
涙で真っ赤になった目が、驚きに見開かれている。
「輪廻転生がなんだ。来世がなんだよ。今、この瞬間に、大切な人と一緒になれないなんて、僕は嫌だよ。僕はずっと、見ないようにしていた。いろんなことを、ヤヨイのこと を、見ないように蓋をしてさ・・・・・・でも、もううんざりなんだ。この先どうなるかなんて、 知るもんか」
ヤヨイの目から、みるみる涙が浮かんでいる。
「ひーくん」
ヤヨイが顔をくしゃくしゃにして、言った。
「あたしも、ひーくんが好きなの」
その言葉を聞いて、不意に僕の目からも涙が流れた。
ずっと堪えていたものが決壊する みたいに、次から次へと溢れ出た。
「これまでのことは、今日で終わりにしょう。僕の命は、本当にか細いかもしれないけど、それでも・・・・・・命が続く限り、ヤヨイをずっと、好きで居続けるから。だから、ずっと、僕と……」
その時、会場一体に大きな歓声が上がり、夜空から人きな音が爆ぜた。
僕とヤヨイはすぐにだを見た。大きな花火が一論、彩り豊かに咲いていた。
とても美しくて、刹那的な光景だった。
花火は次々と空に向かって放たれ、止まる気配がない。
壮大な光景に、僕は笑った。気づけば、ヤヨイが僕の手を探っている。
深く、強く。
僕はその手を、自分ができる精一杯の力で握り返した。
お互いのことを、この夏の風景に刻むように。
微熱 了
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?