葡萄牙の海 4
《わかった。で、どうしてだったの? エンリケ航海王子は、どうしてもっともっと先へ行きたかったの?》
〈挟み撃ちにするためさ〉
《誰を?》
〈アフリカ西海岸沿いの土地々々を征服しつつあったイスラム勢をさ。そいつらを、こちとら海路を回って背後から攻めるってわけだ。それに、海戦となると、イスラム軍より我らがポルトガル船団の方が数段上だからな〉
《それは、成功したの?》
〈まあ、急くなって。はははは。お前、ジル・エアネスのことを訊きたかったんじゃねえのかい?〉
《あ、そうだ。そうだった。話して。誰なの、その人?》
〈おめえみたいなやつさ。はははは〉
《僕みたいなやつ?》
〈そうさ。低い身分の出だが、野心にあふれた、好奇心の塊みたいな男さ。アルガルヴェ地方のラゴスの出でよ、エンリケ航海王子の身の回りの世話役の一人にすぎなかったんだが、口達者なやつだったらしく、王子も面白がって話し相手として傍に呼ぶことが多くなってきた〉
《で、彼にもボジャドールの話を?》
〈当然さ。だって、王子にとっての最大の関心事だったわけだからな。だが、さっきも言ったように、誰も彼も怖気づいて一向に埒が開かない。エアネスもそれに調子を合わせて、皆の不甲斐なさを嘆いてみせる。まさか自分にそのお役目が回ってくるとは夢にも思わずにな。わっはっは〉
《どうして? なぜエアネスにはその役が…?》
〈ラゴス出身の航海士ではあったけれど、船長役が務まるほどの力量はなかったのさ。ただし、出世の野心だけは人一倍あった。自ら王子の盾持ちを願い出たりしてな〉
〈そうよ。王子もそこに気づきになったんだろうな、《これほどの野心家なら、ボジャドール越えをやり遂げるかもしれんぞ》とね。そこで、盾持ちとして取り立ててやるから、指揮官としてボジャドール探検航海に出ろと命じられた。そして、船の運航その他については熟練者をつけてやることにされたんだ〉
《そのおかげで、エアネスはボジャドール岬を超えることができたんだ?》
〈いやいや、話はそう簡単じゃねえんだ。ラゴスを出発したエアネスの船はアフリカ西海岸沿いを進んでいった。なにぶん彼は航海には素人同然だったから、最初はボジャドールにまつわる数多の伝説への恐れもそれほどひどくはなかったんだな。知らぬが仏ってやつさ。ところが、彼をサポートするベテランの船乗りたちは、そうはいかねえ。必死にエアネス指揮官殿を説得する。エアネス本人も、それを繰り返し聞かされるうちに恐怖を感じるようになってきた。で、結局カナリア諸島へと西に向かい、件の岬とはほど遠い土地でのんびりと暮らしていた現地の住民たちを捕まえて、捕虜としてサグレスに連れ帰った〉
《どうして?》
〈使命を果たさなかった言い訳のためさ。航海の最中、いかに多くの危険に出くわしたかと、あることないことくどくどと申し上げて、その証拠のひとつとして捕虜を差し出したのさ。こいつらに襲われたのでそれ以上先に進めなかったとかなんとか屁理屈をくっつけてな〉
〈ところが、当の捕虜たちときたら、やけに穏やかで明るい。それまでは何が起きたのか訳が分からず怯えている者もいたが、エンリケ王子の前に引き出されるや、この人は大丈夫と直感で見抜いたらしく、一同声をそろえて歌いだすわ、踊りだすわで、王子も破顔一笑、即座にエアネスの嘘を見抜かれたってわけさ〉
〈うむ、それは彼ら伝統の友好ダンスだったようだな。王子は自分をだまそうとしたエアネスをきつく叱りつけた。エアネス自身も、自らの卑怯さと臆病さを恥じて心から謝罪し、もう一度チャンスをくださいと申し出た…〉
そこでバサーっと波の音がして、回想シーンの声がかき消され、場面は現実の海に戻る。
行く手左側に、奇岩が点在する岸辺が見えてくる。
《おお、ラゴスだ! となると、俺はもうかれこれ十キロメートルは流されてってわけだ…》
クリストフォロは海流の中を岸寄りの淵へと泳ぎ、そこでオールを手放し、一気に海流から抜け出す。そして、無我夢中で海岸に向かって泳いでゆく。ほどなくして、入江へと押し寄せるサーフに乗ることができた。
長年波に洗われ浸食された岩場は、モンスターめいた奇岩となってそそり立っている。その一つ、底が大きくうがたれて洞穴になっている巨大な奇岩がぐいぐい接近してくる。
クリストフォロは最後の力を振り絞って洞穴へと泳ぎ進んでゆく。
いったん中に入ると、海面は穏やかだ。ターコイズブルーの海水の底にギザギザの岩場が沈んでいる。上方の孔から差し込む陽光が海面にキラキラと反射している。
助かった!
彼は大地を感じる。おもむろに立ち上がり、よろよろと歩き出す。
暑い! そして、裸足の足の裏が熱い…。
大地が歪み、揺らめいている。
何歩歩いたろう…?
クリストフォロは静かにその場に倒れこみ、気を失う。だが、その表情は安堵の安らぎに満ちていた。