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業火の街 1

夜の空は真っ赤に染まっていた。
「イェン!」母の声が幻聴のように聞こえる。「なにしてるの! 早くこっちへ来なさい!」
周りは阿鼻叫喚、逃げ惑う人々の叫び声や悲鳴で夜の大気が煮えくり返っている。
巨大な炎の渦は、空をも覆いつくす生き物のように、そう、悪夢のなかに現れたあの巨大怪獣のように暴れ、押し迫ってくる。

「おまえ、足がすくんぢまってるのか?」父の声だ。「負ぶっていってやる。ほら!」
イェンは自分の体がふわっと持ち上げられるのを感じる、まるで炎が巻き起こす上昇気流か竜巻に翻弄されるかのように。
父に背負われ、群衆の間を縫って逃げる間も、イェンは背後を振り返り、炎を見つめ続ける。この世の終わりなのかもしれない。業火とは、これのことなのかもしれない。十歳のイェルンの頭の中には、すでに聖書や錬金術の書物に描き出された地獄のイメージがしっかりと根付いていたが、今沸き起こっている大火はそれをはるかに凌駕していた。

「おお、ちょっと一息つかせてくれ」父アントニウスは息を弾ませながら歩速を緩め、大きく息をつく。「ほら、城壁の外に出たぞ。おい、イェン、もう自分で歩けるだろう?」
イェルンは父の大きな背中で小さくこっくりする。
「おお、アーケンの旦那!」中年男の声が背後から呼びかけてくる。「お宅はもうダメですぜ。染色通りが火の元だったようですな? いち早くお逃げになって正解でしたよ。あの辺り一帯の家全部、あっという間に炎に呑まれちまったってことでさ」
「そうか…」アントニウスは足元に視線を落としてうなずく。「この子が起こしてくれたんだよ、イェルンが…」
「そうなんですよ」と、母アレイトが言葉を継ぐ。「夜中に目を覚ますことはめったにない子なんですけどね、今夜は突然大きなうめき声をあげて、みんなを起こしてしまったんですよ」

「また悪夢でもみたのかと思ったら、この子はいつになく真剣な口調で『業火だよ! ほら、生き物が焼けこげる臭いがする』などと言う」アントニウスはイェルンの肩を抱き寄せる。「事実、ひどい臭いだったよ。そうか…、染色街が火元だったのか…」
「でも、そのおかげで、お祖父ちゃんはじめ、家族全員を逃がすことができたんですよ」母も傍らからイェルンの頭を軽く撫でる。「あら、あそこにみんな集まってるわ」
見ると、川べりの広場にたたずむ家族たちが手を振っていた。
彼らは互いに駆け寄り、次々と抱擁しあった。
「みんな無事でよかった」祖父のヤンが涙を浮かべながら一同を見回す。「よかった、よかった。命さえあれば、これからなんとでもなるよ」
そうやって一同が再会を喜び合っている間も、イェルンは街の大火を見つめていた。

「イェン…」父がそっと呼びかける。「あれは業火なんかじゃないんだよ。ただの…といっては語弊があるが、人間が起こした火事にすぎないんだよ」
「そうよ、この街の人たちは何も悪いことをしたわけじゃないんだからね」母は感極まったようにイェルンを抱き寄せて頬にキスをする。「ここはソドムやゴモラみたいなところじゃないんだからね」
「さあね、それはどうだか…」そう呟くのは、ホーセン伯父だった。
「それにしても、アントンたちがうちに来て泊まってくれてなきゃ、俺たちみんな危ないところだったよな」トマス伯父が、さっと話題を戻してくれる。「そういう意味では神様のお告げみたいなものだったのかもしれんな」
そのとき、あたりの避難者たちの中から大きな悲鳴が上がった。
街の家々の屋根は葦や藁という燃えやすい素材で葺かれていたため、それらが炎の渦に巻きあげられて、さらに勢力を増しながら市街一帯を嘗め尽くしていたのだったが、遂には市役所まで飲み込もうとしていたのだ。

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。