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初めてのデイサービス

母のデイケア体験、2カ所終了。次はデイサービス体験だと言うと、行ってもしょうがない、家にいると予想した答え。このまま歩けなくなってもいいの?と言うと、もう93歳だから…..。このお決まりの問答を経てやっと、やっぱり行く!と言う。何かにつけてまず一応はごねるのが母のスタイルである。分かってはいても疲れる。

少しでも歩けるようになって欲しい。悪いのはそこだけなのだから。ボケ具合も凄いけれどそれこそもう、93歳だからしかたがないのだ。足の病気じゃないんだよ。コロナで歩く機会が減ったからなんだよ。歩けなくなったままでいいの? 何度繰り返して来たことか、この不毛な会話。

父は糖尿病の二次障害で網膜剥離と腎不全を起こし、弱視と人工透析という重荷を背負った。そして、入院生活で足腰が弱ったまま歩こうとしなくなった。週3回の透析は、部屋から玄関、車に乗るまでの長い道のりをおぶって送迎しなければならず、タクシーの運転手さんにアルバイトをお願いしていた。それはある日、父が頻繁に利用していたタクシーに、病院通いで疲れた母が乗車したことに始まる。運転手さんに「旦那さん、このごろ見ないけどお元気ですか?」と声を掛けられたのである。どうやって通院しようかと悩んでいた矢先の光明だった。今なら、タクシー会社に送迎サービスがあって公的助成もあるかもしれないが、なにせ35年も前のことである。

気前がよくて人に優しく穏やかだった父を慕う人はまわりにたくさんいた。人にしてあげることが大好きな自分が、人のお世話になる不甲斐なさ。一家の柱として不動だった人が生きる意欲を失い、自分の不幸の中に引きこもったまま歩かなくなった…….父はそんな生活を10年余り続けた。幼い孫に向ける目は優しかったけれど、家族との日常会話は成り立たなくなり、シングルマザーで働く私にもきつい言葉を投げた。でも私には解る。自分が元気だったら娘と孫を養うくらい何でもない。それが出来ない自分…..薩摩隼人は女が働くことを良しとしないから、私が苦労していると思っていたのだろう。私が好きで選んだ人生だったのにね。そういうことをもっと強引にでも話せばよかったね。もっと心を通じ合わせる努力をすればよかった。でも心を硬く閉ざした人とのコミュニケーションは想像以上に困難だった。それが敬愛する父であったから、私は毎日のように通勤電車の中でこっそりと泣いていた。イキイキと働く父と幾度となく一緒に乗った横須賀線………..。

母に、お父さんと同じことを繰り返すの?と問うと、そうね、でも......“あと10歳若かったら”ね。........“あと10歳若かったら”は母が50歳の時から言い続けている口癖。母の性格は100%お姫様である。社会の荒波を知らず夫に守られて豊かな奥様生活を送った。でもそれだからこそ、夫の自宅介護を10年も続けられたのだと思う。その妻は夫より25年余り長生きして93歳になったが、気質が変わるはずもなくお姫様のままである。その言動が加齢のためなのか、ただの我がままなのか……..よく分からない日々は続く。

まぁ、それはそれとして…………ごねた割にはスイスイと歩いて、母は〈7時間デイサービス〉に出掛けた。本と塗り絵を持参して。




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