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父の命日

9月13日は父の命日である。前日の午前中に買い物に行き、花と菓子を用意した。お花屋さんではなく、街中にある道の駅のような直売所の可憐な花..... 小さなお月見まんじゅうは、かるかん仕立て。直前の準備の訳は、そうでないと痴呆症が始まっている母が食べてしまうから.... 案の定、夫の命日は忘れていた。そして早速、見つけたお菓子を嬉しそうに食べた。ま、いいか......。

私は父の子である。考え方や行動パターンが似ている。父をよく知る人たちにもそう言われてきた。計算で動くことが少ないから損をする、ただ突っ走る、と人には言われるけれど.........そもそも気にしていないことは気にならないわけで今更変わるはずもなく、このまま年老いていくのだろう。

20代半ばの頃に、父が私に言った「お前が男だったら、何も心配しないんだがなぁ........」こう言うしかない諦めとも、また少々の励ましとも取れるような言葉が忘れられない。「お前はひとりでも生きて行けるだろうから。」...... その後、ひとりでさっそうと生きていけたら格好良かったのだけれど、相変わらず心配をかけ続け、私はシングルマザーとなって実家へ戻ってきた。そして半年後に父は倒れて寝たきりとなった。その後の十年間は看病と子育て。子の成長と父の衰退を見つめる日々だった。さらにその間に、私には別な恋愛と結婚、出産と離婚があった。そのすべてを父は無言で眺めていた。孫たちを暖かくみつめてくれたのがせめてもの救いである。

亡くなったのは唐突で、定期的に行っていた検査入院中で肺炎だった。腎臓透析を続け、視力を失い歩けなくなってはいたけれど、水色の新しいパジャマを着て、なぜか晴れやかな顔でタクシーに乗って出掛けた時の横顔 ......今もはっきりと覚えている。そんなふうに何気なく家から去って行った。それが別れ。夜中に電話があって駆けつけた時には、もう父は息をしていなかった。まだ温かかった身体にすがり付いて私は泣き叫んだ。「お父さん、嫌、嫌.........」 身体が勝手にそう動いた。

その後の数年間、父と歩いた街。つまり東京のあちこち(山手線の半分くらい)へ行く事ができなかった。それでも東京駅八重洲口、有楽町、銀座へは仕事で行く事も多くて、そんな時は必ず泣いた。もう何をしても、怒ったり悲しんだりする人はいないという寂しさと喪失感。しかしながら、何をしても愛されているという無邪気な自信とは恐ろしいものである。無鉄砲で怖いもの知らずの、我が意思に満ちた娘が出来上がってしまったのだから。

だから今、母との暮らしがあるのだろう。抜け道のない、時に無惨だとも思える日々のやりとり。受け止め切れない思いに沈みながらまた、浮かび上がっては、我が人生に起きたことならやってやろうじゃないかと思う。妻の中に残された夫への思いは、娘のそれとはまったく違う。私は父の生きた道を忘れない。だってそっくりなんだから。お父さん、ありがとね。

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