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YAU LETTER《風と十字路》武田俊

YAUでは、アーカイブの一環として、さまざまなお立場の方にYAUをきっかけとした思考を寄せていただく、「YAU LETTER」プロジェクトを進めていました。YAU編集室に届けていただいたLETTERを順にご紹介します。

YAU LETTER について
書き手の方には、2022年2月から5月に開催された有楽町でのYAUプログラムをご覧/参加いただき、「都市(=東京)について」テキスト執筆をお願いしました。なお、ここで言う「都市」は有楽町に限定せず、YAUプログラムをご覧/参加する際に思いを馳せた場所でも可、としています。

風と十字路
武田俊

 「だからさ、なんで36歳だってはっきり言えるわけ? そこが引っかかるっていうか、俺はあんまわかんないわけよ」
 神保町の居酒屋だった。
 歴史あるその店は、その頃急激に増えはじめていたネオ大衆酒場とは違う、ほんものの大衆酒場だった。隣席と肩が重なるほどに詰められた座席は、しかしだからこそ生まれる酔客同士の連帯が生む居心地のよさがある。壁には手書きのメニューの札がびっしりと並ぶ。照明はもちろん電球色。そんなほんもの具合は画面越しでもしっかりと伝わるのだろう。ドラマや映画でもよく見かけ「あ、あの店だ」とすぐに気がつくと、すぐにそこで過ごした時間の素晴らしさを思い出し、また無性に通いたくなるのだった。
 その日は編集と本をコンセプトにしたとあるスペースのオープンパーティの帰りで、ぼくはちょっといらいらしていた。本を加工して造作したランプシェードを自慢されたのだが、肝心のそれが劇団四季『ライオンキング』のパンフレットだったのがその原因だった。別に劇団四季が、ライオンキングが、パンフレットが文化的じゃないなんて言いたいわけじゃない。
 でもそれが神保町の編集と本をコンセプトにした場所に置かれたとき、「本好き」の人たちが何を感じるかを想像できないでなにが編集だ…! そう毒づきたい気持ちを抑え、急いで場を後にしてこの店に逃げるようにして入った。そして、心配して追いかけてきた友人と飲み交わしていたのだった。

 心地よい酒場の喧騒が、ささくれ立っていた心をおだやかに沈めてくれる。
 名物の古代岩塩のピザをつまみながら、ぼくは話を重ねた。
「だからね、ぼくらは18歳で上京したでしょ? それで都心近くに住んでこうやって毎日いろんなところでいろんな人に会ってる。それを18年やったら、36歳になるわけよ。そういや干支もちょうど3ターンが終了か。地元と東京での暮らしがちょうどハーフ&ハーフになるそんな年に、なにかすてきな変化が起こると思うんだよね」
 当時ある界隈で話題になっていた35歳問題──人生を折り返す年齢になると、違う人生の選択をしていたらどうなっていただろうかと夢想するというもの──に気味の悪い後ろ向きなロマンティシズムを感じていて、自分が発見したこの前向きな36歳問題のようなものを特に地方出身者の友人に力説していたのだった。
「わかんねーな。なんか数字にこだわりすぎてる気がする。何、お前移住とか考えてるの? 俺は36歳になっても、東京で変わらず仕事をしてるイメージしか湧かないな」
 そういう反応がほとんどだったから、そっかー伝わんないかあ、なんて言いながら仕事のこと、成し遂げたいことについてその後も話しを続けた。だいたい20代の中盤って、成し遂げたいこととその時の恋愛のことくらいしか話すことなんてなかった。
 その店は、そういう場所だった。
 だからぼくたちは、未来についてばかり話していた季節を越えたあと、あまり通わなくなっていた。
 この世界が感染症に包み込まれてすぐ、その店が閉店を決めたとニュースで知った。
 今そこは、駐車場になっている。

 36歳になった2022年。上京してから初めて23区の外、多摩地域の郊外へ引っ越した。思い切った決断だった。昔、先輩編集者から授けられた「この仕事をしてる限り、できたら環七、最低でも環八の内側に住むべきだ」という教えが妙にしっくりきて忠実に守っていたからだ。それでもリモートでの打ち合わせが主体となり、間借りしていた代々木八幡のシェアオフィスに出かけることもほぼなくなった頃、えいやと決めて引っ越した。家賃が下がって部屋は広くなる、なんてことは容易に想像できたが、実際に暮らしはじめなければ気がつかないことはたくさんある。
 たとえばそれは廊下のありかた。
 これまで10回近く都心部で引っ越してきた身としては、間取りを見ると「できるだけ部屋に面積を充ててほしい」と思ってきた。だから、今の部屋の間取りをはじめて眺めた時、すこしもったいない気がした。総面積は広がっているものの、各部屋の広さは前に住んでいたものと大差がなかったからだ。
 けれど住んでみればなるほど、廊下が、キッチンが、脱衣所が広い。そしてそれはとても豊かなことだった。
 両手にたくさんの荷物を抱えていたり、あるいは家族と一緒に調理をしていたり、そういう時になんの不安もなくすれ違うことができるという事実は、今まで一番安心のできる自宅の中ですらなにかとぶつかることのないよう縮こまって暮らしていたことを知らせた。
 それは、町も同様だった。町における廊下としての駅前の目抜き通りは、地元・名古屋のそれと同じくらいの道幅を有した並木道で踊りながら歩けるほど。往年と比べたらすっかり減ってしまったと伝え聞く個人店も十分に残っているし、駅ビルの中に点在するチェーン店は、作業をする際にはアノニマスな存在になりたいぼくからしたら頼りになる存在だ。住み始めてすぐになじむどころか、これまで暮らした東京の町の中で一番自分に合っていると思えるほどになった。

 タリーズ、エクセルシオール、スタバ、ドトール、ロイホ。
 よりどりみどりの誰でもない存在になれる場所のうちから、スタバを選び都心より広いテーブルにラップトップと本を広げる。そうやって再読のためひらいたのは、文芸評論家・前田愛の『都市空間のなかの文学』だった。郊外のことを考えなおしてみたかったのだ。
 前田は同書所収の論考「濹東の隠れ家」で、産業革命後の19世紀中頃のロンドンを引き合いに出し、工業化により生まれた都市の劣悪な生活環境を反転させるかのように開発されていった郊外を「都市生活者のスノビズムを育てる有力な源泉のひとつとなったのだ」と述べる。そして、当時世界第二位の巨大都市であった江戸における郊外としての隅田川近辺ついて、さまざまな文学作品を登場させながら都市生活者がユートピアとして描き出した郊外幻想の紡がれ方を追走していく。
 わずかな面積で構成された、裏長屋に暮らす当時の町人たちの暮らし。それは、表通りに暮らす商人と五人組の地主層、さらに濠、城郭、武家屋敷に取り囲まれるような複雑な入れ子構造によって管理されていた。長屋にはそれぞれに対応するように井戸、銭湯、髪結床が設けられ、それが地域コミュニティとして機能する。特に寛永十七年の鑑札精度とともに配置された髪結床は一町内一軒とされ、他町内の客は締め出されていたことから、町人たちの生活はそれぞれのコミュニティに閉じ込められていたと彼は論じる。
 そんな彼らの「外部」を求める心と呼応するかのように、当時の町と文学作品にある変化が訪れる。十返舎一九が『東海道中膝栗毛』で江戸の暮らしを捨てた弥次さん喜多さんを東海道に旅立たせた時期は、隅田川のほとりが行楽の場として整備されて始めた頃と重なるのだ。次第に茶店や料亭なども開業し始め、町民の暮らしの中に行楽という新しい楽しみが生まれていく。権力に囲まれた過密な都市で暮らす彼らが、行楽先に見出した郊外というユートピア。前田はこう記している。

江戸市民のあいだに普及した行楽趣味は、やがてかれらの生活感覚に微妙な変化をもたらすことになる。郊外という都市空間の発見であり、都市生活のなかで自然のリズムを回復しようという欲求である。

前田愛.『都市空間の文学』.ちくま学芸文庫,1992,112P

 ハッとして顔を上げた勢いで、氷が溶けきったアイスアメリカーノがゆらりと揺れた。高度経済成長に伴い都心で起こった深刻な住宅難をきっかけに、1965年に開発がスタートしたのがここ、多摩エリアのニュータウンだ。それが、江戸庶民が夢に描いた郊外としての隅田川のほとりに重なっていく。そう考えれば、幾十もの権力の輪に囲まれながら「外部」を探していた彼らと、環七と環八の内側になんとか止まって暮らしていたかつてのぼくがオーバーラップしているように思えてくる。
 江戸と東京、隅田川と多摩丘陵が連なるならば、ぼくは今かつて彼らが描いた夢の続きを選ぼうとしているのだろうか。

 引っ越して半年近くが経ったころ、都心で暮らした日々の記憶と、生活のリズム、そこで磨かれていったはずの「都市の歩き方」とでも言うような身体感覚が抜け落ちていった。
 打ち合わせの合間に半端な時間が空けば近くの映画館に入り込み、新しくオープンする店があればすぐに出かけ、飲み屋に入れば知ってるメンツが盛り上がっていて、電車の時間を気にせず語り合いタクシーで帰宅する。生活よりも交友に親しみ、町をまるで自室のように使い倒していた時分、そこに住んでいなくても出かけた先々の町のことを自分の町だと思えていた。勇ましいような気持ちで歩き、町の歴史を話しながら裏通りへと人を案内する。そういうぼくをぼくは頼もしいと思っていた。
 今それが失われつつある。そしてその喪失は、どういうわけか自分が刷新されていく心地よさを内包している。無理をしていたのだろうか? あるいはぼく自身がライフステージの変化とともに変わったのか。当てはまる理由はたくさんありそうで、それを一つずつ手に取って点検していくうちに、どれもが正解のような気持ちになってくる。

「わかるわかる。そしたらもう、次の更新までに探して家買っちゃえば? コロナのこともあるし、マジで都心の時代終わったよね」
 光る液晶モニターの中から、最近自宅を購入した友人がうれしそうに語る。指向性の少ないマイクが、カランとグラスの縁を打つ氷の音と、その奥に広がる小さな子どものはしゃぐ声を届けた。彼がリラックスして話してくれることはうれしい。それでも違和感は拭えなかった。
 彼は実感を込めながら「いかに都心がストレスフルで時代遅れか」という自説をとうとうと話した。違和感は不快感に近づいていって、ぼくは話題を愛らしい声ではしゃぐその子へと差し替えた。
 彼の話したこと──つまり、自分の選択した暮らしのたしからしさを実感するために、そうではないライフスタイルを否定するというもの──は、最近よく耳にする語り口のひとつだった。
 それは、かつて気味が悪いと感じていた35歳問題の語りをちょうど裏返しにしたものだ。できなかった選択の先に広がるあったかもしれない世界を想像することと、選んだものを確かだと感じるために選ばなかったものを無碍に否定すること。どちらが浅ましいかなんてすぐわかるだろうに、こいつはいったいどうしちゃったんだ?
 まったく気乗りしなくなってしまった残りのZoom飲みの間、大学時代のクラスメートのひとりのことを考えていた。最初のクラスコンパのあとのカラオケでぼくがくるりの「東京」を歌ったあと、渋谷区生まれ渋谷区育ちだという彼女は、いい歌だね、というシンプルな感想に続けてこう言ったのだ。
「いいなあ、1回でいいからわたし、上京してみたかったな」
 あの子は今、どこでどんなふうに暮らしているんだろう。

 過密な東京都心で、たくさんのものに出会ってきた。びっくりするくらい趣味の近い友人や、信じられないくらいチャーミングな女の子に出会うたびに、いつも思い出すことがあった。
 それは、この国の近代文学が東京という過密な都市空間をプラットフォームとしたからこそ、遅れを取り戻すかのように急速に発展していったことだ。おもしろい偶然の出会いがあれば、夏目漱石の弟子・森田草平がたまたまかつて樋口一葉の住んでいた下宿に住むことになったエピソードが、どこもかしこも工事中の渋谷駅を使えば、森鴎外の「普請中」のことが思い出された。
 そうやって現在の発見とときめきが明治へとつながっていくのは、彼らとぼくが同じ都市に生き、同じ座標上で交差したからこそだ。幸せな関係妄想は、文学を学ぶために上京してきたぼくを支えてくれる切実なものだったのだ。
 そんな時期を越え、今、江戸庶民が焦がれ、高度経済成長期の人々が夢を見たあとの郊外で暮らしている。町が広くて、車ですぐ自然に親しめる今の暮らしをとっても気に入っている。けれど同時に、ここが最後じゃないってこともなんとなく感じてる。

 そういえば、環七・環八理論を説いた先輩はこんなことも言っていた。編集者っていうのはさ、時代の風を見て読むんだよ、と。なるほど〜、と言いながら十字路に立ち目を閉じて、風を感じている自分の姿を想像していた。
 風が吹いている。
 東京にはこの国のどこよりも多くの風が吹いている。
 ぼくは編集者だから風を読むのだ、と思ってすこし目立つ風があればすぐそばまで言って、その様子を聞いていた。どんな特徴があってどこをどう通ってきたのか、感じられることをメモしながら。
 そうやって動き続けていると、釣りで魚がよく釣れるポイントのように、いい風が流れ込みやすい十字路をいくつか見つけた。そこに行けば、同じように風を見て聞く人たちがいて、その時々の風の具合について話したりした。ずっとその角に立ち続ける人がいれば、たまに出かけては戻ってくる人、気がつけばもう姿を見なくなった人、色んな人たちが風を聞いていた。
 ある程度風と十字路に親しんでいると、だいたいの風の吹き始めには、それがどんなものかわかるようになってくる。風自体の変化にも敏感になる。どういうわけか、昔はもっといろんな特徴を持っていた風たちは、類型的なものになってきていた。それがぼくはいやいやで、いろんな十字路を行き来して、自分と同じ風読みたちにそのことを話にいった。互いに共感を示しながら話をすればすこしは安心をするもので、またそれぞれの持ち場に戻っていった。
 変化が決定的になったのは、この数年だった。どんな風も以前に増して、時代の趨勢の中で未来を勝ち取るのは自分たちだ、というムードを強めていた。多様性が叫ばれる世界で相手を「論破」し、注目を集めるために手段を選ばず「企画」し、数字を勝ち取る。そんな風ばかりが吹いているから、これはどういうことだと十字路に出れば、風読みたちもなんだか雰囲気が変わっていた。
 ある人たちはもう風など読まず、自らの手で起こした風に乗ることを重視していた。同じような風ばかり吹き込む十字路で、彼らはそれらが重なり合ってできた上昇気流に乗って誇らしそうにふわふわと飛び立っていった。そこからは、東京の町が今、どんなふうに見えているんだろう。ぼくはそれを想像しながら、十字路に立ち風を読むことをしばらくやめようと思ったのだった。
 
 有楽町からの帰り道、久々に山手線に乗る。
 窓際に立つと横の席が空いて、そこにすてきなサマーニットを着た40代後半くらいのふたりの女性が腰を下ろした。これから食事に行くのだろう。もう、そこまで流行にくわしくないぼくでも聞いたことのある店の名前がいくつか交わされていた。会話は次第に、自分たちが選ばなかった店がいかにダサくサービスが良くないかに変わっていった。
「なのにね、○○さんったら、あのカフェのこと好きでしょっちゅう使ってるらしいのよ」
「えー信じられない! でもそういえば、あの人ってたしか地方出身じゃない?」
 電車はそこで次の駅に到着し、プシューっという扉が開く轟音が彼女たちの会話をかき消した。
 ホームへと流れ込む風に押されるようにして、ぼくは郊外へと戻っていく。


武田俊(たけだ・しゅん)
文筆家/メディアリサーチャー。2011年、メディアプロダクション・KAI-YOU,LLC.を設立。その後「TOweb」、「ROOMIE」、「lute」、「M.E.A.R.L.」などアート・カルチャー領域のWebマガジンにて編集長を歴任。2019年より法政大学文学部にて「情報メディア演習」を担当。デジタル、紙、物理空間など多様なメディアを横断し、ナラティブで繋ぎ合わせる手法を探究中。右投右打。

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