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芸術とは何かは人それぞれである以前に、人類の歴史的な軸線があります

芸術、美術を鑑賞する時に、「自由な世界です」「自分の思うがままでよいのです」「人それぞれです」という考えが出やすいものです。「全てをあなたが、好きなように決めなさい」という声が出てきます。

ところがこの対処だと、二つ問題があります。

ひとつは、自分と美術の関係に方向性がなくなってしまい、「自分の目」を生涯持てなくなる確率が、かえって高まる問題です。「自分は美術はわからない、芸術は難しい」という人が増えすぎます。

もうひとつは、人類が残してきた山のようなアート作品にある大きい軸線、芸術とは実はどういう行動で一貫しているかを読めなくなり、作品それぞれにある芸術的成分「そのココロ」をつかむことに失敗します。

芸術性を求める心は他の哺乳類にはごく希薄な、人間だけにみられるある種の「前進志向」です。それは美しいものへのあこがれとは違う、それ以前にある根っこの部分です。

その根っこにすでに軸線があって、「こんなふうにアイデアを出しました」が絵画や彫刻なのであり、そこで独善的で自己中な論法がガンガン唱えられていてもかまわないのです。

「何でも自由、制約なし、好き勝手でよし」だと、見る側の独善や自己中を封じる結果になり、作品と向き合うことが逆に困難になります。作品側からみれば、鑑賞者は「柳に風」「のれんに腕押し」になるわけです。

「自由を制約せよ」と言いたいのではありません。最初から全てを自己責任に帰してしまうと、鑑賞が空回りするだけで、作る人も見る人も関心が持てなくなる結末になると指摘しています。

その表れのひとつが、絵画の鑑賞で写実具象を基準に考えてしまう閉そくです。何でも自由だったはずが、写真にそっくりな模写の能力を高い芸術性とみてしまう画一性で、現代アートが嫌いな人が続出するのです。

その結果、先進国で日本だけがアート作品がまるきり売買されず、売上高が異例に低い国際的な統計に表れています。国民はアートと遠いまま放置されていて、アートが社会に根差した海外との落差が開いています。

「それぞれの自由さ」は、実は突き放しているも同然で、人とアートの関係が切れてしまう発端になっているのです。

(Photo by Ryan Ancill on Unsplash)

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