シトロエンハーフトラックのヒマラヤ越え

シトロエン(Citroen)の挑戦と文化的偉業

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シトロエン(Citroen)の挑戦と偉業

歯車作りから、始まったシトロエン社の創始者アンドレ・シトロエン(André-Gustave Citroën)は、1878年パリに生まれ、1913年、歯車工場を始めた。それは、現在までつづくエンブレムである。

画像2

シトロエン エンブレム

そのシトロエン社では、ヘンリー・フォードに、過大な影響を受け、コンベア方式(ライン生産)の砲弾も製作した。
そして、戦後、自動車の製造を始める。
ユーロ初の量産車(低価格となる)タイプAといわれるモデルだ。
そして、クルマを大衆のものとした、タイプC5CVが登場し、それらが定着してきた。

シトロエンの理念には、その多彩な技術挑戦と文化活動に、シトロエン探検旅行があげられる。
シトロエンのアフリカ・アジアを制したハーフトラックによる探検旅行は、1922年から、各地を廻り、最大の難所であるヒマラヤ山脈は、5000m以上、-40℃と過酷な条件であった。2班に分かれて進行するが、一方(ベイルート側から)は、分解して人力で運ぶが、結果、車を捨てる。また、もう一方(天津側)は、中国の内乱に巻き込まれ軟禁状態となる。
しかし、彼らは、6ヶ月後に対面し、北京に戻った。
途中、死亡者もだしたが、この次なる探検は、カナダ北西部に至る。

シトロエン・ハーフトラックで、2つのルートに分かれて北京へ向かう

ハーフトラック02


これらは、営利目的・広報活動ではない。「その地の自然生態、文化を観察し、フィルム、標本に記録し、紹介する文化活動が、目的であった。空間を時間によって征服することの実現化である。」
車が、社会 -ヒト -文化に過大な役割を果たす事を人々に訴えた。
多々あるメーカーの中で、これだけ、車のワクから離れて、文化的な偉業の達成の例はないといわれる。



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