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歌人窪田空穂、些事を詠む

窪田空穂(くぼたうつぼ、1877-1967):歌人・国文学者(早大文学部教授)。(本名は窪田通治)
当初は、自然主義文学の潮流(明星)を短歌にも導入したが、それ以降は、日常の些事(さじ)を詠み続け、境涯(きょうがい:歌人の人生)に根ざす歌が多い。

はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬものの如くに

この道を行きつつ見えるや谷越えて蒼くけぶる護国寺の屋根

護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ

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1877年(明治10年)、長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(松本深志高等学校)から、旧制の東京専門学校文学科(早稲田大学国文科)に進学したが中退し、代用教員として働いた。その後、東京専門学校に復学して1904年に卒業。
その間、与謝野鉄幹「明星」に参加したり、高村光太郎や水野葉舟とも親交を持っていた。
1902年、同人雑誌「山比古」(やまびこ)を水野葉舟(ようしゅう:歌人・詩人・作家、印旛郡で半農生活)らと創刊。
1907年、小説を「文章世界」に発表。
その後、電報通信社や雑誌の記者や、文学雑誌の編集も行った。
1914年、「国民文学」を創刊。
1920年、朝日歌壇の選者、早稲田大学国文科講師となり、後に教授となる。同僚である会津八一(やいち)との親交がある。
1926年、「槻の木」を創刊。
1942年、日本文学報国会理事。
1943年、日本芸術院会員。
1958年、文化功労者。
1967年、東京都文京区目白台の自宅で病(循環器)のため死去、89歳だった。ご子息を戦争で亡くしている事を、墓石の側にあった記述で知った。
1968年、早稲田大学国文学会にて、窪田空穂賞が創設された。

(註)窪田空穂の学術的な業績として、「評釈伊勢物語」 (12) ,「新古今和歌集評釈」 (2巻,32,33) ,「古今和歌集評釈」 (2巻,35,37) ,「万葉集評釈」 (12巻,43~52) などもある。

(追記)危ういウィルスの影響で、ステイホームが続いている。
それでも、歩かねば、人の極めて少ない近くへと、それは、雑司ヶ谷霊園しかなかった。
足元のへび苺に見惚れて、歩くと、そこが、窪田空穂の墓石だった、まるで、案内されているようだった。
改めて、良く見ると、そのプレートまである。
私は、歌人や文学には、全くと言っていい程、縁は無いのだが、窪田空穂は、ただ、護国寺の短歌等で知っていた。そして、昨日、小栗康平監督(早大文学部)の作品「眠る男」を取り上げた訳だが、その些事を淡々とした流れで扱う作品にどこか引かれた。そして、そこには早稲田大学つながりがある。確かに、今は、その境涯を淡々と些事をこなすしか無いのかも知れないと感じるのだが・・・
*言語は映像と比べて抽象性が強い、そして、具体的でないから、言い回しの表現に微妙なニュアンスを漂わせることが可能なのかもしれない。
*(註)映像の方法論 

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Fig.雑司ヶ谷霊園

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Fig.護国寺




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