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最初の宇宙飛行士-ガガーリンの苦難と努力

ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(Юрий Алексеевич Гагарин,  1934- 1968)
ソビエト連邦の軍人であり、パイロットから、最初の有人宇宙船の飛行士となる。
1934年、グジャーツク(ガガーリン市-1968年)のコルホーズの労働階級の大工の家に四人兄弟の三人目として生まれた。
義務教育の後、金属工場の見習いとなる、その後、成績が優秀であり、サラトフの工業学校へ入学を許された。
1955年、空軍士官学校に入学する、それは、身長158cmのガガーリンには、有利な状況でもあった。
1960年代に入ると、ソビエトも宇宙開発盛んとなる。ガガーリンも、その候補生に選ばれ、多くの厳しい訓練を受けた。候補生20名いた内から、最終的に選ばれた、その理由は、優秀なことはもちろんだが、小柄であったことも大きな要因だろう。ソビエトの初期の宇宙船は大変に狭かった。コラブリ・スプートニクでの多くの実験が終わり、それまでは、犬や人形(音声テープ)を乗船させた。
1961年4月11日、ボストーク1号によるユーリイ・ガガーリン中尉の乗船する世界初の有人宇宙飛行が成功する。
大気圏外を1時間50分弱で1周して、ソ連領内に帰還したが、それは、高度7000mで飛行士を座席ごとカプセルから飛び出し、パラシュートで降下させるという危険な状況で生きて帰還した。帰還中に、中尉から、ガガーリン少佐となる。それは、ニキータ・フルシチョフ(スターリンの後継者であり、第4代最高指導者、また、スターリン批判も著名だ)の*ミサイルを増強する計画の成果として、また、共産党の偉大な労働階級の英雄として、ソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を廻り、世界中で当時、誰でも知りうる時の人となった。

その後、ガガーリンは飛行指揮官となる。
また、宇宙飛行の当初のソユーズ(団結)計画では、ガガーリンはバックアップ要員だったが、親友のコマロフの乗船中の死亡等々、トラブルが続いた。ただ、このソユーズは、現在の国際宇宙ステーションへのアクセスに現役だ。

1968年3月27日、ガガーリンは、航空機の飛行中に墜落事故を起こし死亡する。34才だった。
地球に帰還後、その偉業と国家のプロパガンダとの狭間という状況では、誰しもそうだろうが、メンタル的にも苦しかっただろう。
この飛行前には、当然だが、メディカルチェックや飲酒のチェックも受けている。ただ、現在もこの事象には、多様な見解があるようだ。折しも、*東西冷戦の時代だ。
*「地球は青かった」(朝日新聞)それは、多くの試練を努力で1人で乗り切りった間違いなく英雄である、ガガーリン大佐(最終階級)の言葉だ。

(註)
*ミサイル技術:戦中のドイツからの技術だ、それは戦後、アメリカ合衆国とソビエト連邦に流出し、当時の世界を二極化していた。
*東西冷戦:ソビエト連邦(共産主義)とアメリカ合衆国(民主主義の西側社会)との核によるバランスが保たれた時代だった。
21世紀、現在のアジア圏もその様相を呈する・・・
*Небо очень и очень темное , а Земля голубоватая . 
正確には、「空はとても暗く、地球は青みがかっていた。」

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