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決めない方が良いこと

極端なタイトルにしましたが、人間は「決める」ことが正義だと思っている人が多いと思います。

大きい企業になればなるほど、細かな数字を決めようとする傾向もあると思います。

でも、実は「決めることで失われるものがある」と最近思います。

アイデア、余白、可能性

数ヶ月先の計画をびっしりと組む。

織田はこのやり方はどうも良くないと思っています。

なぜなら余白がないと、奇跡も入り込む余地がないし、

余白がないと、予定調和内のものしか生まれない。

GoogleストリートビューやGmailはGoogle社員の余白の時間で生まれています。20%は仕事と関係ないことをする文化があると聞きます。

20%というと、週5勤務ならそのうち1日ですよ!かなり多い!

可能性信者と確定信者

そして付け加えると、別に

余白がないのは悪だ!

と断定しているわけではなく、これも1つの思想です。

織田は「可能性信者である」です。

可能性にワクワクするし、確定したものはワクワクしない。
だから「計画作ったからそれ通りやれば成功するよ」
とか言われると、一番萎えます。

でもこれは織田の個性なので、人によって違うと思います。織田はこう、というだけです。(あとは仕事などの適正によってどのスタイルがいいかは変わると思います。)

逆に、びっしりと決めたがる人は

「科学信者」であり
「確定信者」でもあると思います。

どちらがいいというよりは、スタンスの問題。

可能性信者は、余白を残したがるし
成果が上がるかわからないけど「直感」を信じたりできる。
その分、俗人化もしやすいし、同じことを複数回行うのは難しい。

逆に科学信者や、確定信者は、可能性信者の僕からすると、

究極、人の可能性やポテンシャルを信じれていない可能性があり、
その人から仕事を受けている本人も自分を信じれていない可能性が高く
そういう人のタイプを量産したこれまでの教育をベースにしているような気がしています。

でもロボットとかAIに指示を出すにはいいのかも?

人にも「余白的指示」を?

これまでは人にもそういう指示を出していましたが、それは今後はやめたほうがいいんじゃないかと織田は思っています。

T-KIDSで一緒に働いた人はみんな「余白的な指示」だけで、自分で考え自分で動いてくれていて、その方がその人の個性が発揮されて、

めちゃくちゃみんな仕事が素敵だしすごく働きやすかったし、すごくよかったと思っています。

逆に具体的指示を出していたら、その子たちのポテンシャルは発揮されたのか?と思うと、余白のある指示に、今は善を感じてしまいます。

ただ、織田が今まで関わってきた人がたまたま「抽象的」「余白的」指示でも自分で考えて動ける人だっただけなのかもしれないですね!

もしかしたら織田がまだ一緒に仕事をしたことがないような、「具体じゃないと無理!」という人も世の中には多いのかもしれません。

でもその場合は「確定信者」「科学信者」側の仕事を受けたらいいな、と思うんです。

僕は可能性信者なので、このスタンスに未来を感じますが、確定信者や科学信者も、それぞれで描く未来があるのかもしれないですし、

これはマッチングやご縁のようなものなのかもですね!

「決めない」「うやむや」にできる日本語は平和につながってる?

これまでの日本は、行動経済成長で、良い大学からの良い会社に入るみたいな、ある1つの王道があったので、「決める」に価値がありましたが、

より一層選択肢が増える現代では「決めない」ことも選択肢の1つだと思います。

情報量も多い中、まだ自分がその時点で未来に出会う可能性を狭めるのはもったいないと、織田は感じてしまいます。

そしてその点、日本語は、今は「悪」とされがちだけど、実はすごく良いと感じるポイントとして、「うやむやにする」ことができる、という点があります。

日本語は、物事を決めないようにするために

・空気感
・ニュアンス

などが他の言語に比べて多いと思います。

この島国の単一民族単一言語の国で、争いがなく平和。

もしかしたら、英語のように、決めたり断定が多い言語だったら、こんなに平和じゃなかったかも?

同時に日本は、決断が苦手と言われます。スピード感も遅いとも言われますよね?でも、スピード感が本当に必要なのか?

スピードや成果を求めたのは、西洋の文化であって、本当にそんなに成果が必要か?

量より質の時代に転換する中で、こういった日本の価値って再発見される気がしていて、これはアメリカとかの真似とかしたらなかなか手に入らない未来なんじゃないかと思います。

平和と引き換えにするなら、スピード感いるかどうかは、議論の余地がありますよね。(うやむやな日本語をあえて使ってみた)

量子力学の二重スリット実験

ちなみに「決めない」「可能性として残す」というのは量子力学の実験でも、物理的に結果に変化が生じる、

二重スリット実験という実験があります!

そちらについてはここで!

ここでは「仮説」と述べていましたが、実際にそういう1つの結論は出ているみたいですね!


とはいえ、だからといって、それが解明されているわけではなく、

一生仮説だし、科学で全て解明したり
世の中のものを全て言語化したり
なんていうの
は無理なのかもですね!

理では無い、つまり、無理。

「見えない」が必ずあるのが理なのであれば、ですが!

科学を信じるのも1つの宗教

そして最後に。

科学が全てを解明する

というのは1つの宗教です。

そう信じる人がいてももちろんいいし、

と同時に、「科学では全て解明できない」と考える人がいても当然だと思っています。

でも西洋の文化から、「科学信者」が多いような気がしていて、

だからこそ、科学信者ではなく科学で説明できないものがあるし、それを信じたり疑ったりして、楽しく生きたい「可能性信者」の織田だからこそ、

こうしてnoteで伝えていきたいなと思っています!

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