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いつか見えなくなる世界

今朝、どうも目がむず痒いなと思い眼科に行きました。
相変わらず眼圧が高めで、精密写真を撮ることになり、緑内障初期の疑いがあるということで、来週に視野検査をすることになりました。

「緑内障」。
ついに来たか、という感じ。ついに・・といっても馴染みのない人には一生ないだろうし、ある人にはある。
進行の進み具合にもよりますが、一度視界が見えなくなったら、もう2度と戻らないのは、白内障との大きな違い。
以前、緑内障初期の診断を受けた友人に連絡をして、いろいろ相談に乗ってもらいました。そして、少しずつ事態を受け入れていこうと思いました。
友達が、「大丈夫。もう片方が残ってる!」と言った時、なんだかホッとしたのです。そうか、そうだよな、って。完全に見えなくなるわけではない。それも、同じ不安を乗り越えて、向き合っている友人だからこその重みでしょうか。
「この世界を1秒でも愛でよう」と友人は決意したそうです。

目に見える世界、というものを考えます。世界にはさまざまな捉え方があり、見える、味わう、聴く、触る、、それぞれに豊かさがあるでしょう。仏教では、その五感の先の世界をも説きます。苦しさから解放されるために、まず五感をコントロールせよというのです。正しいものを見て、聴いて、味い、考えること。世界が、自分の心の写し鏡であるならば、今、この瞬間に見える世界も、心がけ一つで美しくもなり、悲しくもなる。僕は画家として、そういった見えるものの中の「見えないもの」を描いてきたように思えます。

しかし。
やはり、今ここに見える世界は、ありのままの存在として、人間の心とは関係なく、美しくも悲しくもなく、そこに存在しているということを忘れてはならないと思います。「ちゃんと観る」ということを、常々生徒さんには伝えてますが、ここにきて、いつか世界は消えてしまうということを知った時、僕は、自分の心を超えた、そのままの世界を「ちゃんと観る」ことを念頭に置いていきたいと思います。

大袈裟かもしれません。まだまだ10年20年の猶予はあるでしょう。息子や娘の成人までは、まだ世界がうっすらと見えているのか。その頃には聴力も落ち、耳鼻科の先生には60歳までに補聴器をつけねばとも言われていました。
神様から与えられた五感を一つ一つ失っていく。その横で、1歳の娘は言葉を覚え、一つ一つ得ていく。生命はそうやって循環していくのだと感じています。

未来は暗い、というのも考え方次第。失うものがあるから、得るものがある。変わらぬ世界では、見え方はいつも一方向。先の見えない世界より、今、「より観える」世界を念頭に置くこと。今日の瞑想のメッセージでも同じことが言われてました。

最善の未来

最善の、という表現がとても深いなと思います。

世界にはいろんな人がいて、それぞれ問題やハンディを抱えていることもあります。その問題こそが、お互いを理解し、心を繋ぐ、愛の架け橋となることもあるかもしれません。

世界を知る、片道切符なのでしょう。今できることは、目を大切にすること。目を使う時は、極力大切な時間のために使う。(今のように)。そして休める時はしっかり休めて、目が喜ぶ選択をする。
身体が喜ぶ、心が喜ぶ選択。
人生は限られています。今から、変えられます。もっと愛おしむ。

さて、絵を描きますか。いつか見えなくなるその日まで。(見えなくなっても描くでしょうが!)。

画家は視力を失うかもしれない未来に、最善の色彩を与えよう。

おしまい。

よろしければサポートお願いいいたします。こちらのサポートは、画家としての活動や創作の源として活用させていただきます。応援よろしくお願い致します。