心を寄せること
なかなか制作がうまくいかないときに、家族は「誰かを思って描けば?」と提案する。僕は、目の前に誰かがいれば1秒で筆が進むが、こと自分の内面や、テーマとなるとなかなか筆が動かないからだ。
しかし雑多な日常において、ましてや展覧会前となると、誰かを思って描くということが難しい。自分の声のノイズがずっと鳴り響く。それを形にするのもまた表現なのだが、誰かの前に座り画面に向かうと、ノイズがピタッと消える。誰かのために書くということが本質的に合っているのだろう。逆に自分の内面は荒波のようだ。
それでもやはり、どこかで誰かのための絵と自分の心の絵は、少し距離があるように思っている。表裏一体というのは、1つの形はなく裏と表があることで1つとみなすもの。人格が入れ替わるというのが正しいかもしれない。きっと「真心のこもった良い人間」として生きるには、ほとんどの時間を誰かと接していたほうが良いのかもしれない。しかし、「自分1人の時間」というのも一方で大切だ。それがないと、砂時計の砂の落ちる部分がどんどん詰まってくるようだ。
家族の許可を得て、子供の風呂入れの時間だけ僕はカフェに行くことが許されている。そのほうがスムーズだからだ。僕はうまくいかなかった制作のプロセスに落ち込んでいた。「まぁこの程度かな」と諦めた気持ちも湧いてきた。所詮、この程度しか潜在意識は描けないのか・・と。
カフェでぼーっとしていると、知り合いからメールがあって、ちょっとこれから大変なことを知り、悲しくなった。励ましの返信をうっていると、なんだか不思議な力が湧いてきた。人格が変わったのか。そへとも本来の自分なのか。
その人のために、僕の表現を捧げてもいい、と静かに思った。
先程まで、夢で見た「白い桜の木がポツンとあるだけの絵」を描いていた。なんともない絵だ。そこに、その知り合いをシルエットで描こうと思った。すると、次々に構図が浮かび、風を感じ、音色が聞こえてきた。この感覚は、普段描いているオーダーの絵と似ていて、また違う。なんだろう。しかし、アイデアはスムーズに湧いてきて、納得もできる。
ずっと昔、そう学生の時の初個展から、僕は自身の内面世界を描くのに、他者を介入させないようにしていた。一方で路上で似顔絵を描き、人気者にもなったりした。この両極端な制作プロセスが25年続いていて、それぞれ反対方向を向いていた二つの人格が、お互いに振り返るようになったような気がする。両者は少しずつ歩み寄ってはいるが、まだまた距離は遠い。
そりゃそうだろう。一方は空を見上げ、一方は地下をのぞいているわけだから。それらが全て一つだという禅の教えに従って理解しようとしているが、なかなか難しい。
誰かの心に寄り添う、僕自身の心の動きと、またそれを受け入れない心の動き。なぜだろう、やっかいだ。これが二つあっての自分なのか・・。
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