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父が僕と同じ歳の時。

妻の実家で、子供の寝かしつけをしながら、なんとなく「父が今の自分と同じ46歳の時、僕は何歳だったんだっけ」と考えていた。すると14歳だった。

戦慄を覚えた。
14歳の頃、父は46歳だって!?全然若いじゃないか!と・・笑。今更当たり前だが、父にもそんな時代があったわけだ。
今の自分の精神状態を鑑みて、時代背景を考慮しても、それは大変だったんだろうなと想像が容易にできる。しかも長男は思春期突入だ。

46歳の父は、家族4人で2Kの社宅に住んでいた。挫折にまみれ、借金と倒産を機にこの地に再起をかけ、造園業の雇われ管理職だったが、納得がいかず、周りの部下の無能さを嘆きながら、毎晩彼らを自宅に招いて、深夜まで飲んでいた。焼酎一升瓶を普通に空けていた。
部屋は2つしかない。毎晩宴会となれば、家族はたまったもんじゃない。僕は生徒会長になり、今では考えられないほどの体罰を、学年主任から喰らっていた。そして生徒と教師の間に挟まれて、そして自宅に戻れば飲んだくれの父親は、家族を怒る、喚く、殴るで、人生最悪の1年だったと断言できる。

毎日母と喧嘩をしていた。そして手を出して、母もやり返した。ビンは割れ、本や雑誌は舞い、部屋はむちゃくちゃで、「やめてくれ!」と叫んだ。あげく15歳の年、いよいよ受験間近と言うときに僕はキレて、酔っ払って目がどこかへ逝っている父に体当たりをした。小さい頃から相撲で散々鍛えられていた僕だが、その時の父の感触は悲しいくらいに頼りないものだった。

よく、覚えている。

その夜、数日公園で野宿をした後、バスで1時間以上離れている祖母の家を訪ねた。それから数週間で、母と妹もやってきた。荷物は父のいない時に取りに来て、それから2度とその家には帰らなかった。

46歳の父は、なぜそんなにも荒れ狂っていたのだろう。と自問自答して、それは細胞レベルで深く理解できる。父の怒りや虚しさや嘆きは、僕の中にも確固たるものとして受け継がれている。父は、14歳の青年、いや物心がつく前の息子に対しても、ずっと隠すことなく「人生の嘆き」を見せていた。父親の悔し涙もみた。酔っ払って、自制が効かなくても、その目はどこまでも嘆いていた。
今の自分を絶対に認めていなかった。

それでも、僕らが出ていくまでは育ててくれたのだ。そして、数年後、美術大学受験に粉々に失敗した僕に、唯一手を差し伸べてくれたのは、同じく若い頃に画家を目指していた父だった。
その父との生活も半年しか持たずに、今度は父のせいではなく、「自分自身の不甲斐なさ」のせいで、家を飛び出すことになるのだが。

なかなか寝れない息子を腕枕しながら、46歳の父のことが今初めて深く理解できたような気がした。そして、すぐ隣の布団に、父がいるような気がした。僕は話しかけた。

「わかるよ、お父さん。わかる。わかるよ。だから、僕が代わりに、この小さな息子を育てるよ。めいいっぱい育てるから、安心して。」

(僕はちっとも恨んでなんかない)。

天井を見上げたら、寝室にある神棚が偶然に見えた。僕の父方は代々神主だ。ほら、やっぱりそこにいるじゃないかと。父の嘆きも、同じく酒飲みであっさりと天国に旅立った母の孤独も、すべてこの魂の中にある。僕の中に生きている。
息子の耳かきをするこの手は、父の手であり、母の手であり、祖父母の手だ。彼らの様々な人生の想いを、今こうして受け継いでいる。そして、次世代に伝えている。

46歳。
父が怠けてやらなかった、神道や仏道、禅、曾曾祖父の祈りの道を歩んでいるよ。そして母方の40代で亡くなった曾祖父のように教師の道も歩んでいる。それらを融合させて、目の前の人に伝えて、描いている。
「お父さん、僕の方がずいぶんまともな人生じゃないの」と、神棚に向かって伝えてたら、息子が「何?」と尋ねた。「明日の朝、教えるから早く寝なさい」と答えた。

おしまい。

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