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「眠りさん」 後編 (短編小説)

前回のあらすじ

不眠症で悩む僕の元に、深夜に突然彼はやって来た。彼は「私はあなたの“眠り”です」と言った。僕の“眠り”という象徴や概念そのものが、実体化した存在だと。僕があまりに眠れず、眠りのことばかり考えたせいで、彼はこの世界に実体化し、眠りの世界に戻れないし、僕も眠れない。

再び、僕が眠れるようになるには、彼が再び僕の「眠り」として一つになる必要があるというが……

続きです。

***************

“眠りさん”が自身の眠りから覚めたのは、朝の5時半だった。

僕は隣の部屋の壁にもたれて本を読んでいたのでしばらくの間気づかなかったのだけど、いつの間にか“眠りさん”は僕の布団の上で体を起こしていた。ちなみに読んでいたのは、不眠と腸内細菌の関わりに関する本だった。この手の本を最近数冊読んだが、一向に役に立っていない。

「おはようございます。起きたんですね?」

僕は本を閉じて、彼に声をかける。

「ええ…」

寝起きが悪いのだろうか…。眠りさんは浮かない顔だ。

「どうでしたか? 何かわかったことありますか?」

僕は立ち上がり、布団の芝まで行きそう尋ねると、

「……まったく、覚えていないんです…」

と、彼は呆然とした様子で答えた。

「は?」

「いや、私は確かに、眠りの世界に戻れました。ええ、それは確かです。そしてそこで、色んな情報を得たはずです。色んな人と出会ったはずです。しかし、こうしてこちらの世界に来ると、あちらの世界のことは、何も覚えていない…一体、どういうことだ…」

「ああ」僕は聞いててすぐに合点がいった。「ああ、それって“夢”のことですか? 夢はなかなか覚えられません。覚えていることもあるけど。ほとんど忘れるそうです。そうか、“眠りさん”の言う眠りの世界って、夢の世界のことなんですか?」

「夢?…。そうか…こちらのルールは、そうなっているのか…。なんてことだ」

眠りさんは、愕然とし、絶望感すら漂っていた。ようやく、彼の無個性で特徴が皆無な顔に、ほんの少しだけ彼の顔が見えた。しかし、こんな絶望的な表情でなくてもいいのに。

「えっと、とりあえず、朝ですね」

僕は絶望している彼を元気づけようと、明るく言った。

「え、ええ…。朝ですね」

彼は心ここに在らずで答える。カーテンから、朝の木漏れ日が漏れている。

「あの…。僕はこれから仕事もありますし、えっと、7時半に家を出るんですが…」

帰ってくれませんか? と言うのも何かおかしいし、どこか行っててくださいと言うのも何だか忍びない。彼は一応“僕の眠り”なのだから。しかし、どちらにしろ僕がいないとこの人はどうするつもりなんだろう…。

「あ、ああ…。そうですね。わかりました。ええ、お仕事。大切です。お仕事してきてください」

彼はそう言って一人で頷き、明るい表情に戻っていった。そして、

「では私はお留守番してますので、どうぞ行ってらっしゃい。何かできることがあればやっておきますよ? 洗濯とか掃除とか」

さっきまでの絶望感は一瞬で消え失せ、カラッとした様子で言う。

「いや、あの…」

その提案云々の前に、僕の部屋にいるのがさも当たり前といった様子だ。この人、ここに居座るつもりか?

「しかし、あれですね」眠りさんは布団からゆっくりと出て立ち上がった。「私が眠ると、とりあえずあなたの睡眠となるようですね」

「え?」僕はハッとして、何気なく自分の顔を触り、驚いた。

「ほんとだ、…すごくスッキリしている」

肌艶がいい。頭もはっきりしている。一晩ぐっすり眠った後の感覚だ。久しぶりの感覚だ。なんて清々しい朝だ。

「これは一体…」

「だって私はあなたの“眠り”ですから、当たり前じゃないです…」

彼は呆れるようにそう言って、ぶつぶつ言いながら台所へ行き、水道の水で顔を洗った。っそいて手で水を掬ってうがいもした。実際にぐっすり寝ていた彼の方が、どこか寝不足で疲れを残してるような雰囲気だ。

「それにしても」彼は僕の後ろの棚の上にあるタオルを自分のもののように手に取り、顔を拭きながら話した。「どうやら私の方が、こちらの世界を少し学ばないとならないようですね。とにかく、元に戻れる方法を探してみますので、あなたは安心してお仕事へ行ってください。あ、使います?」

そう言って使ったタオルを僕に手渡した。

「はぁ」

僕はただ生返事をした。ここで学ぶってどういうことだ? しかし、考えてもわかるはずないので、僕も顔を洗って、別のタオルで顔を拭いた。鏡を見ると、とにかく血色が良かった。

「あの、僕腹が減ったんで、朝飯食べますけど、えっと、眠りさんは?何か食べるのですか?あ、喉が乾かないって言ってましたけど…」

顔を洗ってから、彼に尋ねる。自分だけ食べるのも何だか気がひけると思ったのだ。

「そうでうね。眠りの世界では必要ありませんが、どうやらこっちでは私もお腹が空くようです。喉も渇きました。眠ったことで、体がこちらの世界に適応したのかもしれません。なのでもしよろしければ、朝食をご一緒したいです。コーヒーもいいですね。実体を持って食事やコーヒーを味わえるなんて、この世界はそう考えるととても素晴らしいですね」

僕は彼の話を聞きながら、食パンを2枚トースターにセットし、その間に電気ケトルで湯を沸かし、目玉焼きを焼いた。

(実体を持って味わえる…?)実体がない、という感覚がわからないけど、それは僕が例えばご馳走を食べる“夢”を見て、目が覚めると何も手応えが残っていないような侘しい感覚のことだろうか?

カップにセットし、湯を注ぐだけで飲めるコーヒーのドリップ・パック二つ使い、マグカップと、厚手のタンブラーに一つずつコーヒーを淹れる。カップは二つ用意していない。

焼き上がったパンと目玉焼きを皿に乗せる。これも皿はお揃いではない。二人分の食器など用意してないのだ。しかしそもそも彼とお揃いの食器で、一緒に朝食を食べたいとは思えないが…。

「手際が良いのですね」

座卓の前の座布団に座り、こちらを見ていた“眠りさん”がそう言った。

「まあ、以前飲食店でアルバイトもしてましたし」

「ああ、そうでしたね。飯田橋のレストランで」

「え? ご存じなんですか?」

僕は冷蔵庫から四葉バターを出し、テーブルにお皿と一緒に並べながら言う。

「そりゃぁもう。あなたの“眠り”ですから。あなたが何度も電車で眠ってしまったのをよく知っています。

「はぁ…」

僕はそれ以上何も言わず、自分の分のトーストにバターを塗った。彼はコーヒーを美味そうに飲み、

「はぁ〜。こんな苦いもんが美味しいなんて、人間の感覚なんて自分でどう思うかで決まるってことですね〜」

とにこやかに言ったが、僕には意味がわからなかった。しかしとにかく、彼は先ほどの寝起きの絶望感どころか、新しい希望に輝いているような印象があった。こちらの世界とやらを、楽しんで学ぶつもり、なのだろうか?

奇妙すぎる夜が終わり、僕は仕事に行った。昨夜は“眠りさん”が僕の代わりにぐっすりと眠ってくれたおかげで、僕は久しぶりにすっきりとした気分だった。

普段から黙々と仕事をするタイプだけど、ここ最近は集中力が途切れ、何度も寝落ちしそうになりながら辛うじて仕事をしていた。夜はあんなに眠いのに、業務中に眠くなるのだから困ったものだ。

数日溜まっていた仕事の残業をこなし、無事に業務を終えた。明日も同じように頑張れば遅れは取り戻せる。午後7時半を回っていた。さすがにこの時間は部署に残っている者はほんの数名だ。

「なんか、今日は元気そうですね?」

帰りがけに、去年入社した、この部署の花でもある笹岡遥香さんに話しかけれた。

「え? ええ、今日は体調が良くて…。あれ?笹岡さんも残業ですか? 今日は遅いですね」

「ええ、部長から次のプレゼンの資料、全部やり直しくらっちゃって〜」

「ああ、それは大変だね」

社内でも1、2位の人気を持つ笹岡真里に急に話しかけられたもんだから、僕は思わず緊張してしまった。

「なんか〜、最近調子悪そうだなって、心配してたんですよ〜」

笹岡さんが甘い声で言う。僕は背筋にゾクゾクっと、悪寒ではない、微弱な電流のようなものが走り、首筋が熱くなるのを感じた。

彼女と会話をして声を聞いてるだけで、男子社員のほとんどが「こいつ、俺のこと好きじゃないか?」と本気で勘違いしてしまうと聞いたことがあるが、確かにこの声と口調は、そう思えてしまう。にしても、こんなに体が反応するなんて、今日はおかしい…。いや、最近ずっとおかしいし、昨日の夜からおかしいなんてもんじゃない。

「あ、ありがとう。大丈夫」と僕は口篭りながら言ってから、「心配?してたの?俺のこと?」とちょっと上ずった声で尋ねた。

「はい、顔色も悪いし、ちゃんとご飯食べてるのかなとか、寝てるのかな〜って」

(む、こいつ、俺のこと、好きなんじゃないのか? これは、脈があるってやつじゃないのか?だって、心配してくれたんだぞ?。はっ、いかんいかん!みんなこれでお熱を上げてしまうんだ…)

そんな自制の声をかき消すように、

「無理しないでくださいよ。何か困ったことあったら、私でできることならお手伝いしますから」

また、首筋にかぁっと熱が上がり、後頭部も熱を帯びる。

「あの、笹岡さん」

今なら近くに誰もいない。これはビッグチャンスだ!

「はい?」

すでに暴走気味だった。普段、そんなキャラではないのに、ここで何か、笹岡さんに対して好意的かつ思わせぶりかつ、真っ向からの誘いの言葉を伝えようと思った。だけど普段から言い慣れていないので、なんて言おうかと、頭の中がフル回転する

(今度飲みに行く?、いや、食事っていうべきか? まずは帰りがけにお茶でもしません? ってところか? それとも一気に 休みの日は何をしていると詰めるか?)

しかし、ここで思わぬことが起きた。

「あれ?大丈夫ですか?」

「…、う、ううむ…」

なんだこれは、急激な眠気が…。いや、これはもう、気絶寸前というレベルだ。こんな眠気、生涯に一度も経験がない。

「具合、悪いんですか?」

「いや、ね、眠い…。猛烈に…」

「え?大丈夫ですか?とりあえず座ってください」

笹岡さんが僕の腕を掴み、横にある椅子に座らせようとする、

「いや、眠りたくない、ね、眠っ!」

「もう、なんかおかしいですよ、一旦座って休んでください」

(ああ、彼女の胸が、肘に当たっている)

と、恍惚感を感じながら、座ってしまった。座ったら、2度と立てないような気がしたから、座りたくなかったのだが、笹岡さんの胸の感触が、僕を一瞬で骨抜きにした。

「何か飲みますか? お茶とか?」

優しい声が耳元で囁かれたのを最後に、僕は一瞬で机に突っ伏して眠ってしまった。眠りたくない、という頭の声はガン無視で、体はコントロールを失っていた…。

☆☆

「………はっっ!!」

と言って目が覚めた。

電話が鳴っていたのだ。口から涎が垂れていて、頬が濡れていた。

顔を上げると、僕はオフィスにいて、周りには誰もいなかった。

一瞬自分の状況が把握できなかった。時計を見ると、午後10時半だった。誰も残っているわけがない。

腕の下から、ぱらりとメモ用紙が落ちた。

【大丈夫ですか? 突然眠ってしまったので驚き、残っていたメンバーで救急車呼ぼうかとか本気で思ったんですが、気持ちよさそうにぐっすり眠っていたので、問題ないだろうということで、とりあえずお先に失礼しました。一応、守衛さんには様子を見ていただくように伝えてあります。また後で電話いれます】

それを読みながら、先ほどの笹岡さんとのやりとりを思い出す。

(電話…)

笹岡さんだ。僕はそれに気づくと慌てて電話を出た。

「おお、起きてたか?」

受話器の向こうは下條先輩だった。笹岡さんではなかった。下條先輩は隣の部署だけど、彼も残業していた。

「大丈夫か? 爆睡して、よっぽど疲れてたか? 突然眠ったから心配したんだけど、なんか気持ちよさそうな顔して寝てるから大丈夫だろうと思って帰ったけど、さすがに心配でな。どうだ?、マジで脳の病気とかじゃないよな? はははは!」

何がおかしいのかわからないが、下條先輩は笹岡さんと付き合ってると言う噂もあるので、このタイミングで彼の声を聞くと何だかイラッとした。

「ええ、大丈夫です。最近、寝不足だったんで…」

不機嫌をアピールすように言ったが、

「おお!そうか、よかったよかった」

そうだ。彼はまったく空気を読まない人だった。

「まあ、気をつけてな!笹岡ちゃんも心配していたから、俺から伝えておくわ。あ、守衛さんにも帰りに挨拶しとけよ〜。じゃあなぁ〜、おつかれ〜っす」

と言って電話が切れる。僕は受話器を持ったまましばし呆然とする。

何かが釈然としなかったが、とにかくまだまだ眠かった。電話が鳴らなかったら、このまま後輩の金子のデスクを涎まみれにして朝まで眠っていたかもしれない。

のろのろと起き上がり、オフィスを出て、守衛さんに挨拶をして、会社を出た。体が鉛のように重いが、とにかく家に帰ろう。

☆☆☆

ただいま、と言うべきかどうか、咄嗟に、ドアノブを開ける時にそんなことを思った。なぜなら、家には“眠り”さんが待っているんだろうから。しかし、彼は家族でも何でもないし、僕の眠りの象徴とか言われても、意味はまったくわからない。

「ただいま…」

つぶやくようにそう言ってみる。一人暮らしで、こんなことを口に出すことは基本的にない。

しかし、部屋は真っ暗だった。

(いないのか?)

と思いつつ、彼は明かりを必要としないのでは?とか、またぐっすりと僕の布団で眠っているのか、などと考えながら、部屋に入り明かりをつける。

誰もいなかった。テーブルには、朝僕が用意したお皿が2枚、マグカップとタンブラーがあり、パンの屑のようなものがかすかにテーブルに散らかっていた。

「眠り、さん?」

声をかけるが、彼はどこにもいなかった。布団にも、猫の額ほどのベランダにも。

まさか、夢だったのか?彼の存在自体が…。しかし、パンを食べた後がある。確かに、彼は居た。

といっても、特に心配はしてない。嫁入り前の娘さんを預かってるわけではないのだから、適当になんとかするだろう。

(そしてひょっこり帰ってくるだろう)

と思っていた。朝の別れ際、彼は希望に満ちていたのだ。だからひょっとしてどこか見聞しに出掛けているのかもしれない。

しかしひょっこりどころか、それっきり“眠りさん”は僕の前にやってくることはなかった。

そして僕はその日から、毎晩ぐっすりと眠れるようになった。彼の話では、再び僕らは一つにならないといけないとのことだったけど、一体どういうことなんだろう? 彼はこの世界のどこかにいるのか?それとも、眠りの国とやらに帰ってしまったのだろうか?

眠れるようになって、以前の日常が戻った…。いや、戻ったわけではないい。なぜなら、僕の人生は大きく変化した。

「…終わったら、お家に行きますね」

笹岡さんは、午後の業務の合間に、僕にそっと耳打ちをする。僕は周りを見渡してから、

「うん。ネトフリで昨日のドラマの続き観よう」

と小声で伝える。

僕たちは付き合うことになった。もちろんあの一件がきっかけだ。ちなみに笹岡さんが下條先輩と付き合ってると言うのは噂で、事実無根。先輩が一方的に誘ってるだけだった。

これは“眠りさん”のおかげだと言っても過言ではない。でないと笹岡さんのような可愛い子と付き合うことは愚か、親しくもならなかっただろう。

何やら彼女が僕が毎日辛そうにしているのを見て、心配になって、そのまま妙に気になってしまったとのこと。そして、僕が突然眠る姿を見て、なんて自分らしく振る舞える男性なんだと感心したと…。

まあ、僕が自分らしく振る舞えるかどうかはさておき、とにかく妙な経緯だ。

☆☆☆

「今週末ですか?、実は実家に帰らないとならないんですよ」

ベッドの上で、僕の腕に包まれた笹岡さんが言う。食事をして、ドラマを観た後、今夜は泊まってく? 終電で帰らないと、いやいや、でももうちょっと…、明日も早いし〜、大丈夫〜…、なんて会話の後、ひとときの甘い時間を過ごした後、週末の予定を聞いたのだ。

「実家?」そういえば、彼女は地方出身だと、どこかで耳に挟んだことはあったと思い出した。

「へー、里帰り?」

「里帰りってほど遠くないですけどね。先月姉に二人目の子供が産まれて、まだ会いに行ってなかったんです」

「いいねぇ、そういうの」

まったりとしたひと時の、何気ない会話。そこでふと気になった。

「あれ?ところで実家って、どこだっけ?」

「宇都宮です」

うつのみや、という言葉が鋭い釣り針のように、僕の心の何かを引っ掛けてた。

(宇都宮から来ました)

それは一気に引き上げられた。忘れかけていた眠りさんのことを思い出した。

「あれ?どうしました?」

「…眠いんだ」

「もう寝ましょう。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

終わり





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