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「眠りさん」 前編 (短編小説)

深夜2時に、玄関のインターフォンが鳴った。これはマトモなことじゃない。こんな夜中に誰がやって来るのだ?

僕はベットからのっそり起き上がる。どうせ起きていたので、眠りを妨げられたという怒りはない。ただ不安なだけだ。

そしてそっと足音を立てないように玄関に行き、覗き窓から様子を伺う。

そこには見慣れない若い男がいた。歳は自分と同じくらいだろうか…。にこやかな表情だけど、どこか不安げなのが見て取れる。無地の紺色のTシャツにジーパンという格好だった。この頃5月にしては陽気な日が続いていたとはいえ、寒くないのだろうか?

「あ、すいません、夜分遅くに」

男は僕がそこにいるのを知ってるかのように話した。

「困りましたね。多分、お互いすごく困っていると思うんです。僕も本当に困り果てて、だから一緒に解決しないとならないというわけです」

何を言ってるのか意味はわからないけど、どういうわけが僕は彼に不信感を全く抱けなかった。だから玄関を開けた。

「えっと、どういうことですか?」僕は彼と向き合いそう言い、そのまま続けて尋ねる。「というか、どちらさまですか?」

「ああ、私は眠りです」

男はさも当たり前のように答えた。

「眠り?」

ますます僕は混乱した。

「私はあなたの眠りです」

「意味がわかりません」

「え? そう来るとは考えてなかったな…」と彼は意外そうな顔をした。

「眠りは、眠りなんですよね…。参ったなぁ」

「はぁ…」

僕が納得できかねない様子を見て、彼は手をポンと打ってから、

「そうですね、なんと言いましょうか」顎に手を当てながら話した。

「では簡単に言います。私はあなたの眠りという状態であり、あなたの眠りという現象、そして概念そのものなんです」

ちっとも簡単ではない。

「すいません、ますますわからないというか、もっと混乱してしまって」

「え? じゃあ、もっと端的に言いますと…」

「あ、ちょっと待ってください」

勢いづいて話そうとする彼を制して僕は言う。

「あの、もう深夜なので、とりあえず上がってください」

「そうですね、それは失礼しました。こんなところで話してたら、近所迷惑ですね」

そう言ってから、男は「お邪魔します」と言ってアパートの中に入る。

彼の背は僕より少し低く、体型も細い。髪型は同じ。顔はなんというか、非常につかみどころがない。覚えたと思ったら、すぐに忘れてしまいそうな、まったく特徴のない顔だ。特徴がない、ということすら忘れてしまいそうな顔だ。

2Kのアパート。僕は一応リビング的に扱っている部屋に彼を通し、座布団を置いた。彼はとても慣れた様子で座布団に座り、テーブルに手を置いた。

「あの、何か飲みますか?」

「いや、お構いなく、まったく喉は乾いてません。だって眠ってる間に何も飲めないでしょ? 本当は飲めるならビールでもハイボールでも私もいっちゃいたいところなんですけどね!」

そう言って彼は笑うが、僕にはまったく何が面白いのかも、彼が何を言ってるのかもわからない。

「ええと、眠り、って」

「はい、私は眠りです」

ひょっとしたら彼は“ねむり”という変わった苗字なのかと思って、

「ねむり、さん? 」

と尋ねたら、

「ははは、名前じゃないですよ。概念です。まあ眠狂四郎って時代劇ありましたからね」と明るく言って、「つまりあなたは今、眠れないですよね?」

彼はそう続けた。つまり、という接続詞は間違ってる気がしたが、そこは何も言わない。

「ええ…。はい、最近、寝付きが悪いんです」

そう。不眠症だ。僕は眠れない。かれこれ10日間ほど、ほとんど夜眠れていない。昼間に微睡んだり、うとうとしてなんとか過ごしているが、このままでは体も心もおかしくなってしまう。

「それであなたはいつも私のことを考えていましたよね?」

「いや、あなたのことは知らないです」

「そんな!」眠りさんは意外そうな顔をした。「知らないって…。だって、私のことずっと考えてたじゃないですか?」

「それはつまり、僕が眠れなくて、眠りたくて、その、眠りについて考えいたといことですか?」

「そうです」

「そうですって…」

「あまりに強く想ったせいで、私はこうして自立した存在となって浮遊していたのです。あ、これは我々にとってよくあることです。分離していまうこと」

(我々?)

彼の話は根本的に真意は計りかねるけど、とにかく眠りさんは饒舌に語る。僕はなんと言うべきかわからず黙って話を聞く。いや、そもそも僕の返事やリアクションを待っている様子はなさそうだ。

「それでみんな眠れなくなるんです。自分から眠りが分離してしまうんです。でも、そのうち戻ります。眠りを忘れてくれたことで、分離して浮遊した我々は、ようやく自由になり家路に帰れるんです」

「はぁ」

他にどうリアクションすべきだろうか。

「しかしですね、あなたは私のことを忘れようとしない。ずっと私のことを思い続けている…。これ、すごい精神力ですよ? そこまで集中力が続く方はなかなかいらっしゃらない。しかし、だから私もそんな風にしがみつかれると困ってしまうのです。おかげでこうして実体化してしまいました。それで仕方ないからこうして直接あなたを訪ねて…」

「ちょ、ちょっと待ってください」僕は彼の会話を制して言う。「僕が、眠りについて考え続けて、僕から眠りが分離した?そして、それが実体化した?とおっしゃっているんですか?」

「ええ」彼は初めて少し怪訝な顔をした。さっきからそう言ってるだろ、と言いたげだ。

「実体化ってなんですか? あなたは、僕の、眠り?」

「実体化です」彼はにこやかな表情から、少し気の抜けたような表情になる。しかし、その顔にもまったく特徴がない。「実体化したのは今日の夕方です。場所が宇都宮市だったんで、やって来るのがこんなに遅くなったんです。終電で上野に行き、そこから府中のこのアパートまでは…」

「宇都宮?」

思ったことがそのまま口に出てしまった。

「え? はい。宇都宮です。餃子で有名な、栃木県の…」

「いや、それは知ってます」宇都宮について語ろうとしたので、僕は流石に言葉を挟む。「宇都宮の場所くらい知ってますよ。でも、どうして宇都宮なんですか?」

僕は宇都宮に行ったことがないし、縁もないので。

「さあ…私に尋ねられても困るのですが…」彼は初めて生真面目な表情をした。「いや、むしろ、私の方がからあなたに宇都宮に心当たりがないかお聞きしたかったんです」

「いや、宇都宮に縁もゆかりもないし、友人もいません」

昔、大学時代のサークルの知り合いで、一人だけ宇都宮出身の男がいたが、個人的にははほとんど話したことはないし、卒業後に一度も連絡をとったことはない。彼が縁やゆかりとは思えない。

「うーん、でも必ず何かあるはずなんですが…。まあいいでしょう。終わったことです」

彼はまた明るい表情になる。いいのだろうか? 僕はそんな風に楽観的に思えないのだが…。

「それはどうでもいいんです。あくまでも問題は、あなたは私を求めていて、私はあなたを求めているという利害は一致しています。そうですよね?」

「はぁ」

この男を求めているって…。まったく実感がない。

「でも、こうして会ったのに、ひとつになれないわけです。私はあなたと交じりたいのに…」

「あの〜、ひとつになるとか、交わるとか…、別の表現ありませんか?」

僕は男相手にそんな趣味はない。

「おっと失敬!」彼はおどけた様子で額をぴしゃりと叩く。「確かにこれは問題発言だ!昨今のLGなんとかならむしろ推奨されるのかな?多様性?でも私もいかがなもんかと思うんですよ?マイノリティはマイノリティですからね。マイノリティのための社会になったり、マジョリティが立ち行かなくなる社会になる。マイノリティの方が困らない制度や設備はあって然るべきですが、それは…」

「いや、別にそんな複雑なことを言ってるわけではなく…」

「あちゃ〜、脱線脱線。すぐに話が横道に逸れる」

僕の眠り…、ということは、僕自身の分身? なのにこの陽気なキャラはなんだ? 僕は普段、友達も少ないし、陰キャと呼ばれるタイプだ。おかげで30歳、彼女なし、一人暮らし。

「とにかくですね、私はこんな風に実体化していたくないわけです。なぜなら私はここの世界の住人ではありませんから。これは極めて不自然なことです」

何から何まで不自然だが、もうこれ以上彼の存在自体には何も言うまい。そしてこの状況になぜか馴染んできた自分もいる。

「この世界の住人ではないってことは、眠りの世界の住人?」

「まあ、そういうことですね」

「眠りの世界…。それは一体…」

「それは知らなくていいのです」彼はピシャリとした口調で言う。「知らない方がいいし、知ってはいけないのです。なぜならあなたは“こちらの世界”の住人だからです。そうですよね? 眠りの世界には眠りの世界のルールやシステムがあります。あなたがそのシステムを知ってしまうと、おそらくこちらの世界でマトモに生きていけなくなるでしょう」

彼は穏やかな表情だったが、早口で緊迫感が伝わった。

「はあ、なんか、怖いですね…」

「おほっ。ようやく実感いただけましたか? そうですそうです。これは怖いことなんです」

途端にまた、どこか間の抜けた様子で答えたので、また怖さが少し薄らいだ。

「あなたは多分、不眠症で健康に良くないとか、仕事に支障が出るとか、そういうことをお考えだと思います」

その通りだ。僕はうなずく。

「しかし、ここまで来るともうそんな悠長なことを言ってられないのです。あなたはすでに、この世界のシステムを逸脱し始めています。これは由々しきことなのです」

彼は指を立てて僕に話した。僕はその仕草に思わず唾を飲んでしまった。確かに、これは異常な事態が起きているのかもしれない。僕が考えている以上に。

「じゃあ、どうすれば?」

と尋ねる。

「それがわからなくて困っているのです。このようなことはまず起きませんし、私が眠りの世界に戻って誰かに尋ねることもできません。なぜなら私はこの世界に実体化してしまいましたから」

「向こうの世界には、誰か人がいるのですか? 眠りの世界に行けば、そこでなんらかの知識や方法を知った誰かが」

「ええ、います」彼はそう言って顎に手を当てた。「そういう事例を、星の噂で聞いたことがあります」

「星?」

「あ、いや、ええと」彼は少し慌てた様子を見せる。「なんと言いましょうか、こっちではなんて言うんですっけ? 直接聞いたわけではない、なんらかの情報を受け取った時に、なんとか噂と言いません?」

「えっと、そういう時は、風の噂、って使いますかね…」

「そうそう、それそれ!私も風の噂です。だから確実にいるんです」

確実に、というからには、風の噂とは意味合いが少し違う。風の噂は、情報の真意がやや不正確の場合に使う例えだ。なんだ?星の噂?

「まあ、とにかく“眠りさん”?が、その眠りの世界とやらに行けば、そこで何らかの情報が得られて、万事解決すると」

「ええ」

僕が遠慮がちに彼を“眠りさん”と呼んだことに対しては、眠りさんは何の違和感もない様子だった。他に呼びようがないのだ。

でも多分彼は田中さんでもマイケルさんでもゴルバチョフさんと呼んでも彼は同じように返事をしたような気がする。なんとなくだが、そんな印象を受ける。

「眠りさんが、眠りの世界…、それって、詳しくは話せないんでしょうけど、そこは眠った後に行ける世界ってことですかね? ということは僕は毎晩行ってた…?」

素朴な疑問として、独り言のように僕が呟くと、

「そうか! あなたいいこといいますね!」彼は突然目をパッと見開いて言った。「そうですよ。あちらの世界に、私が行くのは簡単でした!私が眠ればいいんです」

「え? “眠りさん”が、寝る?」

「はい。私が眠れば、あちらの世界の情報を知る人から直接伺えるはずです。簡単なことでした!さてさて、では寝るとしましょう。では、お布団をお借りしますよ」

彼は一人で興奮した様子で話し、僕を避けて隣の部屋へ勝手にづかづかと入る。

「いやいやいや、ちょっと待ってください。僕の布団で?」

さすがに見ず知らずの男が、自分の布団で寝るのを黙って見てるわけにもいかない。

「え?」彼は僕の態度に意外そうな顔をした。「だって、床の上では安眠できませんよ。私は眠れないといけないのですから」

そう言いながら、おもむろに靴下を脱いで、裸足になって布団に潜り込んだ。

「いや、まあ、そうなんですけど…」

「では、おやすみなさい。善は急げ。少年老いやすく学なり難しです。一日一善。気にしない気にしない。それでいいのだ」

「……お、おやすみなさい」

彼の諺だがなんだかわからない言葉の羅列に完全に圧倒されてしまい、僕はそうとしか言えなかった。ただ、答えた後に彼の言ってることがまるで意味が噛み合ってないし、一休さんとバカボンパパが混じってると気づいたが、もう遅かった。

とはいえ、今から寝ますと宣言して、いきなり眠れるのだろうか?

…などという心配はまったく無意味なことだったようで、彼はすぐに規則正しい寝息を立て始めた。神経が太いというか、そもそもそういう“人として”の何かを超越しているのか、今の僕にはそれは非常に羨ましいことだった。

僕はやることがないので、とりあえずヤカンに火をつけ、お茶を飲むことにした。カフェインの入ってないほうじ茶を飲むことにしているが、気分はコーヒーを飲みたかった。

ここ最近、夕方以降はカフェインを摂取しないようにしている。しかし、それでもまったく眠れていないのだから、カフェインは原因ではなさそうだけど、どちらにしろ深夜2時のコーヒーは、なんとなく体に悪そうだ。

お茶を飲み、僕は彼の睡眠を邪魔しないように、音楽をかけたりせず、黙って本を読むことにした。いつもなら、なんとなく眠気はあるのに眠れない、という状態が続くのだが、今日はまったく眠くなかった。

そのまま、朝を迎えた。5時過ぎに、外はすっかり明るくなった。

続く

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