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持ってけドロボー!(エッセイ)

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持ってけドロボー!

僕の生まれ育った家は地方都市の駅近くの街中にあった。今でこそその辺りも空き地やマンション、シャッター街となってしまったが、僕が子供の当時は、近所の商店街は充実し機能していて、人の往来があった。

我が家自体も店を構えていたので、常に「戸締まり」は厳重にしていた。

「戸締まり?そんなの当たり前でしょ?」

とあなたが常識として思うのなら、その常識は多分ここ40、50年くらいの「都市感覚」として養われたのではないだろうか?  なぜなら一昔前の日本は、繁華街や商店街ならいざ知らず、普通の住宅地なら家に鍵なんてかけることはほとんどなかったという。

戦前の東京だって、下町では施錠をしない家がほとんどだったと聞いたことがある。

なぜなら、近所すべてがコミュニティとして機能していて、不審者や新参者に対して厳しい目を向けていたからだ。

日本の村八分文化が、良い側面として出た結果だろう。余所者に警戒的な故、それが警備機能を果たす。

今でも田舎の農村はそんなノリがある。見知らぬ顔の人、移住者に対して警戒的で排他的だが、仲間内の結束があり、近所中顔見知りで、出かける際に施錠などしない。

僕は今でこそ家族がいて、都会暮らしなので人並みに施錠をするが、一人暮らしの頃は施錠をしなかった。まったく、家に鍵をかける習慣がなかった。

しかし、その習慣は自分で作り出したものだ。なぜなら僕の生まれ育った家は、蒸気したように、地方の中堅都市の中心部だったせいで、施錠や戸締まりにはうるさい家で、その習慣は身についていたのだ。

20歳の頃に、単身東京へ行き、そこで一人暮らしを始めた。

社会的な身分としてはフリーター。アルバイトで生計を立てながら、バンド活動もあるし、若かったから友達の家に遊びに行ったりして、家にいない時間もたくさんあった。

当然、出かける際はしっかりと施錠する。赤羽駅から徒歩15分ほどの距離、住宅街の中。当時で築50年ほどのかなりボロアパートで、どう見ても金目のものなどなさそうな家にも関わらず、そして実際に家にある高価なものといえば「楽器」と「録音機材」くらいだ。

しかししっかりと施錠していたのは、それは何も、泥棒とか犯罪を恐れての防犯ではなく、ただの「習慣」だった。

家を出る時は鍵をかける。理由などない。習慣って恐ろしいものだ。何も考えなかった。

そんなある日。東京での暮らしもある程度慣れ、生活にはリズムができていた。いつも通りアルバイトから帰ったら、家の様子が違っていた。

今考えても「人間って、そういうのわかるもんだな」と感心するが、アパートの前に立っただけで、異変を感じたのだ。

それは建物の外壁がどうとか、そういうことではない。見た目だけなら、いつもとなんら変わりはないのだ。しかし、

(なんか、……おかしい…)

という、得体の知れない気配があった。当時は霊感だの直感だのスピリチュアルだの、そんなことに対して皆無の頃だ。

しかし、何かが違うと、その空気感にビンビンと自分に響くものがあった。

玄関のドアノブを恐る恐る手にかける。なにか、おかしなことが起きていると察知していたので、緊張していた。

そしてドアはノブを回すと簡単に開いた。その時点で、予感が予感ではなく、現実だと確信した。

なぜなら朝、部屋を出る時に鍵はかけたのだ。間違いない。間違えようはない。当時の僕にとって、家に鍵をかけるという行為は、パンツを履くとか、靴下は左右揃えるのと同じくらいの常識だった。

しかし、鍵が自分以外の手によって開けられてる。

(おいおいおい!やべえぞ!なんか、やべえそ!)

さすがにビビる。誰かが、自分の留守中に入ったのだ。確信があった。

しかし、不思議と(今はもうこの中にはいない)という直感もした。

なぜなら、この部屋から見知らぬ誰かが何事もなくドアを開けて出ていった気配も感じたのだ。先ほども書いたけど、今考えても不思議というか、人間には本来そういう力があるのだと思う。

僕は一応警戒しながらドアを開け、自分の家なのにその忍足で中に入り、電気をつける。玄関を開けると、すぐにキッチンとトイレがあったが、そこは何も異変はなかった。

ちなみに家賃5万のボロアパートだったが、間取りは2Kだった。

玄関とキッチンとトイレのドアがあり、その隣は3畳間という謎に狭い部屋があり、奥が6畳間で、外には取ってつけたようなプレハブ小屋があり、そこに風呂があった。

風呂場はシャワーはなく、ガス湯沸器式の一人用のバスタブのみで、ほぼ「野外」に近いので、冬場は露天風呂状態だった。床もうちっぱなしのコンクリートで、虫やらトカゲが普通に歩いていた。

キッチンを通り抜け、3畳間に行くと、そこで誰が見ても明らかすぎる異変があった。窓ガラスの「鍵」の部分が、丸く大きく割られていたのだ。外から叩き割ったので、ガラスの破片が畳の上に散乱していた。

中には小さな折り畳み式のテーブルがあり、そこにマグカップが置いてあったのだが、マグカップは倒れ、中に飲み掛けのお茶がこぼれ、畳に染み込んでいた。

(ど、ど、ど、ど、ど…)

どろぼー!と、声には出さなかったが、その時の驚きようはなかなか見事だった。自分の人生のおける「あまりの驚愕の出来事に驚いて絶句した出来事」の上位ランクに入ると思う。

ちなみの他にランキング上位は、電車で大男からの痴漢被害に遭い、チン子を揉みしだかれたことと、初めてのキスで、いきなり舌をつっこまれぐりぐりされたことなどがあるが、その辺はいずれ…。

話を戻そう。

泥棒、である。空き巣だ。よもやテレビや漫画の世界でしか見たことのない惨状が自分の身に起きるとは。

部屋は安全だった。もう犯人はいない。しかしさすがに動揺し、かるくパニックになりつつ、何か取られたものがないかと確認する。

楽器は、無事、音楽機材は、無事。何事もなかったように、そのまま置かれている。とりあえずホッとする。高価なものはなんと言っても楽器だ。

(えっと…、他には!何が取られた!)

小さい小箱に、通帳は印鑑が入ってることを思い出す。

(ぶ、無事か…!)

そこは確かに物色された様子はあった。しかし、何も取られていない。そもそも、通帳の残高など、給料日前で3千円だった。

(ほ、他は!)

と、必死に探すが、途中で気づく。

(ん?……なんも取られてなくね?)

そう、何も、部屋からなくなっているものはなかった…。

今考えても、びっくりするくらい、何も持っていなかった。取るものがなかったのだろう。

そして、楽器類と、強いていえば布団くらいだったと思う。無くなったら困るものって。しかし、泥棒もそんなでかいもの持っていかないだろうし、そもそも人の布団など持っていく意味がない。ちなみにシーツは引っ越してから一度も洗ったことがなかったという不潔ぶりだ。ますます持っていくわけがない。

で、途方に暮れつつ、どうしようかと腕を組み考える。

(これは警察に、言うべきなんだろうか…?)

純粋に悩んだ。なぜなら、何も取られていないのに、警察を呼ぶ意味があるのだろうか?

季節は冬だった。1月だったと思う。北海道から出てきたばかりの、最初の東京の冬は、北海道人はみんな言うが「東京あったかいねー!」ってことで、さほど寒さに不便はなく、小さな電気ストーブ一個で過ごしていたが、窓ガラスが割れてるとなると、さすがに寒かった。

なので、「犯人が見つかったら、ガラスを直してくれるお金」くらいはあるのでは?と思い、警察に通報。生まれて初めて110番を回した。

しばらくして警察がやってくる。50代くらいの警察官と、その部下である30代くらいの男。

事情聴取、現場検証を一通り終え、時刻は21時を回っていた。何も食べていなかったので腹が減った。

警察官の言った言葉はこうだ。

「いやー、泥棒もこんな家に入ってツイテねぇよな〜、なーんも取るもんねえんだからな!」

そして「がはははは」と、豪快に笑った。別に腹は立たなかったが、今の時代なら炎上してもおかしくないコメントだと思う。

だが、僕もそう思う。空き巣もあまりの金目のもののなさに驚いたのだろう。

「つーか、なんで入ろうと思ったんですかね?見るからに、自分で言うのもなんですけど、ボロアパートですし」

率直な疑問を投げかけた。

「泥棒家業ってのは、けっこうリスク高いんだよ」

そのおじさんは説明してくれた。

捕まると当然犯罪であり、そこそこ罪は重い。しかも、この手口はプロだから、前科もある場合が多い。そうなると、絶対に捕まらないように慎重に計画を立てる。

大きな家は厳重だし、金目のものを探すのが大変。家族がいる家より、一人暮らしの人間は行動パターンが読みやすい。だからあらかじめ僕の行動パターンを観察していたのだろうと。

何も持ち出されなかったのは、プロは「あし」がつくものは基本取らない。現金と貴金属狙いだという。

「しっかし、なんもなかったとは、泥棒にしてみりゃ大外れだなこりゃ!」

がははははは!

と散々笑って、帰っていった。帰り際はあっさりしてて、

「え?これだけ?」

と、いささか拍子抜けして。

「あの〜、犯人は?」

尋ねると、

「あー、残念だけど、こういうのはまず捕まらないよ。現行犯でもない限りな。なんも証拠残してないしな。そして、捕まっても何も取られてないだろ?器物破損と不法侵入じゃ、大した罪にもならねえし。とにかく兄ちゃんは大家さんに連絡して、ガラスのこととか、その辺は相談しな」

ということで、大家さんに夜分だが電話して、事情を伝える。被害的には、畳がぐしょぐしょになったのと、ガラスの破片と、何より窓ガラスだ。ガラスは人の拳が二つ入りそう大きさで鍵の部分、つまり中央部がぽっかりと割れているのだ。

大家さんの話によると、警察に「被害届」を出せば、保険が適用されるとのことで、業者をすぐに手配すると。

しかし、先ほど「被害届はしないです」と断ってしまったばかりだったので、すぐに警察に電話し、再び被害届を出した。翌日に警察署に行ったと思う。

そして、結果大家さんが保険で治してくれたで、ガラス修理代は負担しなくて済んだのが、

「ただ、土日を挟むので、業者の手配に、早くても数日かかると思います」

と来たもんだ。だがここで大家さんに文句を言っても意味がない。待つしかない。

とにかく寒いので、コンビニのレジ袋を破いて、ガラスに貼り、セロテープで補強した。しかし、そこで窓ガラスの偉大さを知った。容赦無く寒いし、隙間なく貼ったつもりなのに、どこからか風が入ってくるのだ。

数日間、そんな状態で過ごして、無事にガラスが治った。そして、僕はある習慣を手放した。

そう。「出かける時は鍵をかける」という習慣がなくなった。

なぜなら、意味がないどころか、むしろガラス割られるくらいなら、自由に見てけドロボー!という心境になったのだ。

以来、僕は結婚するまで、ずっと鍵をかけない人だった。

今も東京に暮らしているが、近所との関わりはほとんどない。会えば挨拶くらいするけど、どんな人なのかはわからないし、交流はない。見知らぬ人が歩いていても、誰も気に留めない。こういう環境では、やはり最低限の防犯意識は必要だろう。

数年前まで地方で田舎暮らしをしていたのでよくわかるが、今でも田舎は、何かと「区」とか、そういう地域の関わりがあり、半強制的に作業に参加させられたり(断ると面倒だ)、子供がいると余計に学校や地域行事への参加が多くなる。

そういうことがたびたびあって、それはとんでもなくかったるかったけど、おかげで近隣の人たちとたくさん顔見知りになるし、それぞれの“人となり”がわかる。会えば世間話くらいしたりもするし、何気ない情報交換もある。

だから泥棒がいることがそもそもおかしいのだけど、やはり近隣の人たちと顔見知りにはなっておきたいなとは思う。同調圧力とか、そういうのをうまくやりくりしつつ、古き良き日本の人付き合いって大事かもしれないよね。

しかし、何が起こるかわからない世の中である。用心しろとか、備えろとは言わないけど、何が起きても変じゃないのだという「覚悟」はしておいていいのでは?と思う次第である。

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