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「絵本」について思うこと

誰だって子供の頃、絵本を読んだり、読んでもらったことはあると思う。そして子供のいる人なら、大人になってから再び子供のために絵本を手に取ることもある、もしくはあっただろう。

俺も子供が生まれてから、当然の如く絵本を息子のためにたくさん読み聞かせた。

日本の昔話から、「3匹のヤギとガラガラドン」とか「大きなかぶ」とか、そういう外国の定番の絵本もたくさん読んで、なんとも言えぬ懐かしさを、自分の子供の頃を思い出しながら感じたものだ。

子供のが生まれてから、成長に合わせて買った絵本もたくさんあるけど、僕の妻は非常に物持ちが良いタイプで、彼女の子供の頃からの大切な絵本をたくさん持っていた。

一時期は「人種差別だ!」として絶版にされた「ちびくろサンボ」とか、イソップ童話集とか、俺の知らない話もたくさんあって、それは新鮮だった。

息子が小さかった頃なので10年以上前だが、当然その頃に出た絵本もたくさんある。「ヨシタケシンスケ」さんの本とか、大人が読んでも面白いものがたくさんあったが、気になったのが昔話のリメイクされた絵本だ。

読んでいて(あれ?こんなんだっけ?)と思うものがたくさんあった。何が違うのかと言うと、新しい絵本は、それも「イイ話」にまとめられていた。ハッピーエンドで、さらに「教訓」まで訓示されている場合が多い。

例えば、かの有名な「さるかに合戦」。現代版はけっこう昔と違う。柿の実を独り占めしたずる賢い猿は、「臼」「クリ」「蜂」「牛のフン」にこっぴどくやられて死んでしまう、というのが僕のかつて知るさるかに合戦だが、今は最後は「サルは反省して改心し、みんな仲良し」という設定だ。しかも「牛のフン」は「海藻」になってる…!

(おいおいおいおい!)

と思うのは、俺がひねくれているからだろうか?

昔の絵本って、けっこう残酷だった。悪者は容赦無く傍若無人に振る舞い、正義はこれまた容赦無くその悪を誅殺した。しかし、それらが妙に「淡々と」進められていった。

シンデレラの原作も、いじわるな継母の連れ子の姉は、ガラスの靴に無理やり足を入れるために、爪先を切り落としたり、カカトを切り落としたりして靴を履いて王子をモノにしようとするとか、正気の沙汰ではない。

まあ、その辺な残酷な描写だけど、誰もが知る「赤ずきんちゃん」。おばあさんを食べてしまうオオカミ。

オオカミは多分“理由なくおばあさんを食べた”んだと思う。そこに妙なシュールさとリアリティがあった。実際、動物の世界なんてそんなもんだ。彼らが自分より弱い生き物を捕食するのに理由はない。

ちなみに、最近の赤ずきんちゃんはさらにパワーアップしていて、“おばあさんを食べずに、クローゼットに閉じ込めた”、なんて設定に変えられているものもある。

それはきっと、出版社なり製作者の配慮なのだろうけど、なんか違う気がする。

残酷な描写を見せろ、ってことではない。勧善懲悪を押し付けるのでもない。ただ「世界には残酷な事がある」と、物語を通して見せてやる事。「この世には理由もなく襲いかかってくる困難がある」と、物語を通してそっと知らせてあげることに、絵本の良さがあるのではないのか?

現代はとかく「問題」に対して「解答」を見つけすぎ、というか、回答や正解を重要視し過ぎではないか?どんな疑問も、すべて「答え」を持って解決しようとしてしようとする、解決できると思っている。

それは幼い頃から「学校」という場で、設問を与えられ、それに「正解」することで評価を得て、承認され、メリットを受けてきた現代人だから、そんな風になってしまうのはわかるのだけど、残念ながら人生とか、世界とか、心とか、算数のようにいつも決まった問題と答えがあるわけではない。

答えのない答えがあり、答えが変わる答えがあり、答えは人によって違う答えもある。

絵本って、そんなもんじゃないのかな?

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