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今、子育てしている人へ(無料記事)

先日だが、息子くんの誕生日だった。14歳になった。

もう小さな子供ではないので、プレゼントも「お小遣い」にした。実際、それが一番嬉しいものだ。

その日は家族で外食し、家に帰ってからデザートにケーキを食べた。そこででかくなった息子をまじまじと見て、ふと、生まれたばかりの頃とか、小さな小さな頃のことを思い返した。そしてこう思った。

(ああ、もう二度と、赤ちゃんだったコイツを、幼かったコイツを、抱きしめる事はできないのだなぁ)と。

当たり前なんだけど、ふと、思ったのだ。

『子育てに正解なし』

誰の名言でもことわざでもないが、そんなもんだと思う。「あの時〇〇すればよかった」「もっと〇〇してあげればよかった」など、子育てへの後悔って、親ならば大なり小なりあるものだ。未熟な自分の、無知で未熟で幼稚な子への対応が、成熟してからわかるもの。

過去には戻れないし、過去なんてしょせん「夢」のようなものであり、大事なものは「今」だ。だから、過去にしがみつくのは、過去に生きるようなものであり、今ここを大切にしていない。だから、過去は「全肯定」で良いのだし、我々はそうすることによって、新たな原動力を得るのだから、肯定せざるをえない。

しかし、それでも俺は、自分の過去を振り返った上でこう言いたい!もしも、現在子育てをしている人がいるのなら、今、その小さな我が子の体を抱きしめ、重さを感じて、ぬくもりを感じて、声を聞いて、無邪気な姿を見ていられるのは、

今だけだ!

本当に、あっという間である。もちろん、子供を亡くされた方などにしてみれば、「育っただけ奇跡でしょ!」と言うだろう。それはわかる。確かに、俺も我が子が14年も無事に生まれ育ったのは奇跡だと思うし、今この瞬間、この奇跡に感謝している。

しかし、俺は言いたいのだ。いや、俺は、俺自身が「悔いている」のだ。あの頃の自分に。

どうしてもっと、あの瞬間瞬間を、大切にできなかったのだろう…。自分の事ばかりで、遊びたがる息子を面倒に思ったのだろう…。自分のエゴばかりで、息子のことを認めてやれなかったのだろうと。

この後悔も、すべて俺の作り出した「幻想」だとしても、それでもやはりそれは俺の中で大きなウェートをしめているのだと、こういう節目になってあらためて気づかされる。

もちろん後悔ばかりではない。

初めて、我が子を抱き上げたときの温もりや、息遣いや、壊れそうなほど弱々しいのに、生命力に溢れたそのすべてに、どれだけ俺は戸惑いながらも感動し、心揺り動かされたか。今もこうして昨日のことのように思いだせる。それは一生の財産であり、俺の人生の大きな大きな、何よりも大きな出会いだったと思う。

今、子育てに苦しむ人がいるのなら、子育てに煩わしさや、疲労を感じる人がいるのなら、伝えたい。耳にタコができるくらい、親とか先に子を持つ友人とか、ネット情報とかで知っているだろうけど、

「今」なんだよ、と。

しかし、そのためには、まずは「自分自身」なのだ。自分が疲れているのに、自分が余裕がないのに、子を愛して、可愛がり、優先することはなかなかできない。

妻のお腹に子を授かり、腹が大きくなり、生まれてから数年間。いつも疲れていた。妻との関係もかなり悪かった。妊娠出産育児。俺が家事など全面的にサポートするとはいえ、どうあがいたって女性の胎内なので「孤軍奮闘」になる。初めてのことで不安も多い。

だから妻は、つわりの時期からずっと情緒が不安定だったし、実際体調も良くなかった。

そして産まれた我が子は「寝ない子」だった。夜中、きっちに2時間おきに泣くので、生後1年間は、毎日極度の睡眠不足だったので、ますます心の余裕をなくしていた。

ちなみに、子供の中にうちの子のように、とにかく「すぐ泣く子」というタイプがいる。男の子に多い。これに対して「抱き癖がついてるから夜泣きが多い」とか「親が不安だから子も不安になってすぐ泣く」という説とか、とにかく色んな説がある。

しかし、これは俺なりに色々と調べたが、とにかく「しょうがない」と思う。よく寝る子と、あまり寝ない子がいるのだ。あまり寝ない子の方が、育てる側の負担はとんでもなっく増えるが、理由を探すのは無意味だ。

ちなみに「よく寝る子」しか育てたことのない親に限って、あまり寝ない子に対して、あれこれと偉そうに自説を述べるということもわかった。人間っていかに自分の信じる世界だけで生きているものか…

話を戻そう。

体や情緒の不調だけでなく、生活面でも、楽観的な俺と違い、妻の方はお金の心配とか、将来への不安も抱えていたので、職場復帰して働き、貯金と節約にかなり口うるさかった。それでストレスが増え、さらに不調をきたすと言う悪循環に陥っていた。

だから終始俺は、妻の言動に気を配り、ご機嫌を損なわないようにして、怒らせないようにして、何事も妻の感情の先回りして行動するように気をつけていた。しかしそれでも、暴発するし、口論になっても「妊娠」とか「授乳」とか言われると、男は100%勝てないから、ぐうの音も出ずに押さえ込むしかない。

そんな中で、俺だって当然仕事もある。当時は普通に勤め人をやっていた。

22歳〜24歳くらいまでの、呼吸不全のうつ病時代も相当辛かったが、この結婚初期の生活もまた、ストレスフルで、毎日生きているのが辛かった。実際、過度のストレスからなのか、アトピーになり、治ったと思っていた喘息になった。

はっきり言って、当時は我が子を可愛いなんて思えなかった。

周りの連中がよく言う「どんなに疲れていても、我が子の寝顔を見たら疲れがふっ飛ぶよ」なんて言う感覚は、残念ながら当時は一度も得られなかった。そして、我が子を心から愛せない、そんな自分を責めた。

だから、毎日、仕事を終えて家に帰るのが苦痛だった。子供のために早く家に帰りたいと、生まれたばかりの我が子に、そう思えない自分と、何より無垢な息子に対して、悲しかった。

そんな中でのせめても慰みが、早朝や、昼休みや、仕事が少し早く終わった日なんかに、一人でパソコンに向い、コツコツと小説を書くことだけだった。まだブログもやっていなかった頃で、音楽活動は断念し、とにかく自分の抑圧した思いを吐き出せるのが、創作の世界だけだった。

もちろん、それがこうして、「文章執筆」という仕事になっているのだから、あの時代に書いて書いて書きまくったことで、技術が磨かれたからこそなので、すべてつながってはいるのだが…。

ただ、それでも悔いている部分があるのだ。そして、「もし今ならどうする?」というIFに対しては、どうすればよかったのかという、架空とはいえ、最もベストな選択肢を知っている。

俺は周りに甘えればよかったのだ。

お金も使って、自分や妻を楽させればよかった。節約とか貯金とか、妻は大事にしていたけど、そんなことよりも、自分たちの体と精神を優先すべきだった。親族や友人から「あの親は遊んでばかり!」となじられようとも、自分たちにゆとりを持たせてあげればよかった。

それを、ぶつかり合う覚悟で、妻に本気で伝えればよかった。ずっと「俺が我慢すればいいんだ…」と、自分を蔑ろにしていたのが何よりも間違いだった。自分を楽にさせるために、妻にそれを伝え、一緒に、周囲に甘えるという選択をすれば、心に余裕を持てたのだ。

息子の、生まれてから成長していく過程の、息子の人生の初期の、貴重な貴重な時間を、なるだけたくさん、共有し、共感し、笑い合うためには、まずは親自身が心に余裕がないと難しい。

俺はあの頃、生活に余裕がなかった。精一杯だった。いつも疲れていた。妻への怒りを抱え込んでいた。だから、いつもイライラしていてたから、結局子供へ優しくできなかったし、子供を第一優先にできなかった。

世界の平和は、子供の平和。子供の平和は、未来の平和。

今子育てしている人、これからする人。とにかく覚えておいて欲しいのが、

「親になったら、周りに甘えよう」ということだ。

自分の両親や御近所さん、友人知人、自治体、共同体、使える力を何でも使おう。大丈夫。こっちには最強兵器「赤ちゃん」がいる(笑)。赤ちゃんの可愛さに勝てるヤツはいない。誰でも、多少ぶーぶー言うヤツはいるかもしれないが、基本的には喜んで、空いた時間に面倒を見てくれる。こんな俺だって、昔は「子供嫌い」だったのに、今では赤ちゃんを街中で見かけただけで(かわええ〜のぉ〜、だっこしてぇ〜な〜)と思ってしまうのだ。

人は、一人じゃない。子育ては、親だけがやるものでも、まして母親だけがやるものではない。これは、社会通念として理解が必要だと思う。

今の時代は、とにかく近所付き合いや、人付き合いがない時代だ。しかし、コミュニティがなければ、子育ては難しい。もちろん、ただ子供にミルク飲ませて、飯を食わせ、おむつ変える事はできるが、子育てを全然楽しめていない。子育ては楽しみながら、一緒に成長したいものだ。

だから勇気を持って、周りの人や、年配の人に、コミュニケーションを取ればいい。頭下げればいい。いろんな意見や考え方に耳を傾け、尊重し合えればいい。その姿勢を、我が子に見せればいい。そして、いろんな人の協力で、子供をみんなで育てよう。

一人で背負い込んで、ストレス抱えて疲れて、イライラして心の余裕をなくすことが、子育ての一番の害悪だ。悩むべきは、上手な子育てや、効率の良い子育てではなく、「自分がどうやって心身楽になれるか?そして子育てを楽しめるか?」に、頭を使え。

そして、パートナーや、助けてくれる人たちの「コミュニケーション」が問われる。そして、最終的にはそれはすべて「自己信頼」が土台になる。

人間が赤ちゃんや幼い子供でいられるのは、本当に一瞬とも呼べる、わずかな間だ。もちろん、大きくなったって子供は子供。子供はかわいいものだけど、それでも、小さな小さな頃の、あの生命の輝きを目の当たりにできるのは、わずかな時期だ。

どうか、世界中の親という親達が、子という子達と、健やかな喜びに溢れますように。

そして、14歳になった息子へ。心からおめでとう。俺は、お前に出会えたことが、何よりの人生の大きな喜びだ。それは、胸を張って言える。

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