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モネと印象派〜アバンギャルドな若者達〜

今回は、19世紀後半に美術界に革命を起こした「印象派」について、クロード・モネを中心に、その誕生から発展についてお話しします。

印象派以前:写真の登場と美術界の危機感

以前のnoteでも取り上げましたが、当時19世紀半ばは、写真の誕生により、美術界は大きな転換期を迎えていました。

絵画の意味そのものに疑問が投げかけられ、伝統的な美術業界の在り方に対する批判的な声が上がっていたのです。

この頭打ち感漂う状況の中で、新しい表現方法を模索する動きが生まれ、そこで立ち上がった一つが、後に「印象派」と呼ばれる画家たちでした。

印象派の前身であるバティニョール派

印象派の誕生を語る上で欠かせないのが、「バティニョール派」の存在です。これは、パリのバティニョール地区にあった「カフェ・ゲルボワ」に集まっていた若手芸術家たちのグループを指します。

エドゥアール・マネを中心に、モネ、ルノワールらが集い、当時の美術業界や伝統的なサロンについて熱い議論を交わしていました。

マネやモネたちは、既存の美術界の常識にとらわれず、絵を描くとは何か、どう表現するか、を模索していました。

ここでのバティニョール派の活動が、後の印象派の基盤となったのです。

印象派の先駆者:エドゥアール・マネ

そして、印象派の話をする上で、エドゥアール・マネの存在を無視することはできません。マネは、「印象派の父」とも呼ばれる画家で、当時の美術界の常識を覆す作品を次々と発表していました。

例えば、マネの「草上の昼食」という作品は、神話の場面でもないのに裸婦を描いたことで大きな議論を呼びました。
また、「オランピア」という作品では、「現実の裸体の女性」を主題とし「女神ではない娼婦の裸」を描いて物議を醸しました。

これらの作品は、当時の美術界における古びた常識やルールに対して、一本の矢を放ち、「新しい表現」の可能性を示しました。

モネやルノワールといった若手画家たちは、このマネの姿勢に大きな影響を受けたのです。

印象派の誕生:実は馬鹿にされた呼び名?

1874年、モネやルノワールたちは独自でグループの展覧会を開催します。

この展覧会で、モネの作品「印象、日の出」が展示しました。この絵は、「ぼやっとした水辺の太陽」を描いただけのものでしたが、これが思わぬ反響を呼びます。

ある批評家が、「ぱっと見の印象を、一瞬で書いただけだろ」と酷評。彼らを「印象派野郎」と呼んだのです。

しかし、モネたちはこの「印象派」という響きを逆に気に入ったのか、自分たちの名前として採用しました。
(批判を逆手に取るくらい必死だったのか、それとも彼ら印象派の反骨精神からきた動きなのかは、わかりませんが、、、)

印象派展を開催するも結果は・・・

印象派によるグループ展は、苦難の連続でした。

まず、モネたちは印象派の父と呼ばれる、当時のリーダー的な存在であるマネに参加を呼びかけましたが、マネはグループ展への参加を断ります。それでも、若い画家たちは自分たちだけで開催することを決意しました。

しかし、勢いだけで立ち上げたようなものなので、結果は惨憺たるものでした。

  • 批評家たちから「ボロクソ」に叩かれ、まともに絵画を見に来る人がほとんどいませんでした。

  • 来場者の中には、「精神病院」を見にいくのと同じよな形で作品を見にいく人もいました。(当時は、そのような扱いで精神病院に訪れる人がいました。)

  • 公式のサロン展が40万人程度の来場者を集める中、印象派展の来場者はわずか数百人程度でした。

  • 展覧会の資金すら回収できず、第1回目で運営会社が潰れてしまいました

まさに、「泥舟に先輩を乗せようとしたら逃げられて、自分たちで漕ぎ出したら沈んだ」状態だったのです。

モネの苦悩:「印象派」からの離脱

印象派展は計7回開催されましたが、モネは3回目くらいで既に「印象派」に嫌気がさしていました。

その理由は主に2つありました。

  1. 「経済的な失敗」:印象派という新しい会社を立ち上げたにもかかわらず、作品が売れず、稼ぐことができませんでした。これが最大の理由です。

  2. 「人間関係の軋轢」:印象派の画家たちとの関係が必ずしも良好ではありませんでした。特に、エドガー・ドガとの関係は良くなかったのです。

結局、モネは「印象派」から離れ、自分の描きたいものを追求する道を選びました。しかし、この決断が後のモネの大成功につながるのです。

小話:エドガー・ドガの「ドガル」ゲーム

印象派の画家の1人であるエドガー・ドガの特徴を示すエピソードがあります。それは、エドガー・ドガにまつわる「ドガル」というゲームです。

このゲームは、とてもシンプルです。酒の席で相手の悪口を言い、最もウィットに富んだ発言をした人が勝ちというものでした。

このようにゲームにされるような人だったので、性格は良くなかったのだと想像されます。

まとめ

印象派の歩みは、「革新」と「苦難」の連続でした。彼らは既存の美術界の常識に挑戦し、新しい表現方法を模索しました。その過程で、批判や経済的困難、様々な障害に直面しました。

しかし、こうした苦難を乗り越えて生まれた作品が、今ではモネやルノワールを筆頭に素晴らしい絵画と評価されているのです。

当たり前のことですが、新しいことに挑戦する時には必ず困難が伴います。その当時は失敗だと思っていたことが、後から振り返るとその挑戦が大きな波を生み出す。印象派の歩みから、そのようなことを感じますね。

次に美術館で印象派の絵画を目にしたとき、その背後にある歴史に思いを馳せてみてください。今までの感じ方とは少し変わるかもしれないです。

Podcast「アート秘話〜名画に隠された世界〜」では、今回取り上げた内容を対談形式で語っています。こちらの放送もどうぞよろしくお願いします。

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