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アートケアだより2023年7月号

 私事で恐縮ですが、高野山と熊野を旅してきました。今回は「語らうこと」「美術とは」など日頃、問うていることを記してみます。
 アートケアの皆様へ:お会いした際に、旅のこと、日々感じたことを、折にふれ、ぜひお聞かせください。

●語らうこと

 壇上伽藍の華麗な立体曼荼羅に包まれたい!金剛峯寺にある千住博さんの襖絵を観たい!いにしえより描かれてきた那智の滝を見たい!とまぁ、失礼ながら宗教心より芸術興味の旅。家族はそれぞれ行ける時に高野山、熊野を訪れており、私は「おや、この週、空いている」と、ようやく行けました。ということで一人旅。

 旅は、ある種、装置のようなもので、見知らぬ人と話すことが自然になりますよね。そして高野山、熊野という土地柄もあり、出会った人と話してみると「なんと!なぜここでお会いできたのか!」という、小さなご縁が数珠繋ぎのように広がる毎日でした。

 「高野山霊宝館」では、弘法大師直筆の、決意表明と言われる書が展示されていて、お節介心がムクムク。素通りしていた外国の方に「これ、直筆だし、あまり見られないものだから見るべき!」と声をかけました。その方々と翌日の宿坊で再会してびっくり。宿坊は52あるんです。

 静かな語らいの中、解決したようでいて気にかけていたのはこれだったんだと気づくことも。朝のお勤めの後、ご一緒した3人でご住職さんとお茶を飲み談話する贅沢な時間がありました。そこで湧いた思いへの答えが、今ひとつわからないまま、少し後ろ髪をひかれながらお暇しても、次に訪れた先でちゃんと答えが用意されている。

 それは奥の院、御廟そばの休憩所。聞いているのは私以外お一人で、お坊さんも「お集まりの方が少ないですが」と気にされながら、ご自身のお子さんや野球のことなど、軽妙で面白いのにハッと涙が滲むお話でした。真面目な教えとしてでなく、生活の中に真髄があると気づかせてくださる。答えと思えたことは答えでないかもしれませんが、霧が晴れるような思いは前に進む力となります。

 昨今、個人情報保護の観点で、会話の際、遠慮してしまうことはありませんか? ワークショップや鑑賞会で皆様と話すのは「子どものこと」や「取り組みについて」がほとんど。お互いテーマに沿った話をするのは当たり前なんですが(そうでないと講座にならないですね)「目的と着地」「意味のあること」という意識から少し離れて、隙間時間に一見関係のない話をするのも、意外な共通点がわかったり、お互いの人となりがくっきり身近に思えたりして、実はとても意味ある地点に行き着く場合があるなと思います。ユーミンも歌ってます「すべてのことはメッセージ」。日々、語らいを大切にしたいなと思いました。

●美術ってなんだろう

 「美術ってなんだろう。人が生きていく上で、どんな意味があるんだろう」と常々、問うています。特にコロナ禍では、近代的な「個」を打ち出すような芸術は必要なのか? 芸術に携わる人々は少なからず思った時期でした。

 祈りの場に作品を奉納する際、作家さん方はどう考えておられるか。祈りの場では、個でありながら個を超えたところの表現が求められる。普段、己の作風を追求しているでしょうから、どう取り組んでいらっしゃるのか。

 千住博さんが金剛峯寺へ奉納する作品制作のドキュメンタリーでは、そんな格闘を見せていらっしゃって、心打たれました。それで尚のこと観たくなったのです。

 襖絵を拝見すると、自然を写し取るような筆致、重力に任せる手法で個を越えようとされている要素もありながら、千住さんの体を通して出てきたもの、とも感じられ、その一体感と調和に安らぎを覚えました。

(襖絵は 金剛峯寺 千住博 と検索すると、たくさんご覧になれます)

 一方、祈りの場で制作を依頼する方はどう思っていらっしゃるか。
 以前、奈良の唐招提寺で現代の作家さんに作品依頼をするのはなぜかお尋ねしたところ、「昔の人々が私たちに残してくださったように、私たちも100年1000年、残るものをと考えている。やがて朽ちていくものに替わるものを作り、残すのです」とおっしゃっていました。

 人は環境を破壊しながら生活している面もあり、個でありながら個を超えた世界に目を向ける必要がある現代。
 今の芸術のあり方はとても幅があり、その多様性こそが今を映し出しているようにも思います。

 子どもたちがお絵かきや工作をするのは、なぜか。
 あまりに自然にやっていることですが、戦禍や困難な状況にある子どもたちが描くことでなんとかバランスを取っている姿を見るたび、人にとって心を形にすること、特に言葉にできない時は言葉以外の方法で表すことは、必要なことなのだと感じます。


那智の滝 山自体が荘厳

●人智を超えた力を人へ伝える表現

 那智の滝。信仰と結びついていることもあり、いにしえから現代まで、とてもたくさん描かれています。昔の人にとって、那智の滝へ行くのは誰にでもできることではなく、長い道のりを歩いて、ようやく到着するわけですから、その感動はとてつもなく大きかったことでしょう。

 バスで移動した私でさえ、それなりに歩いて到着すると「わー!着いた!大きい!!」と声を上げるほどでした。遠くから見るのもよし。雨で水量が多かったそうで、間近では大迫力でした。

 写真や絵では感じられなかったのは、滝の中に平安貴族のような烏帽子を被った人が修行しているように見えたことです。子どもたちと見たら「〇〇に見える」と皆、出し合って楽しかろうと思いました。

 小雨の中「滝のしぶきも混じっているかしら~?」と楽しい思い込みをして体全体で水を受け、清々しさいっぱいに。「己の力を出しきろう!」と帰路についたのでした。

那智の滝!
帰りに晴れてきて、陽の光が参道を歩く人々をキラキラと照らしていました


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