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[豊田泰久×林田直樹対談]ポスト・コロナ時代のオーケストラと音響を考える(3/3)

3.〈密〉を取り戻すのが難しいなら、いまやるべきことは?


この記事をもとにして書籍が誕生しました!

音響設計家・豊田泰久との対話
コンサートホール×オーケストラ 理想の響きをもとめて

聞き手:林田直樹/解説:潮博恵
アルテスパブリッシング刊、2024年2月26日発売
https://artespublishing.com/shop/books/86559-289-4


林田 最初の話に戻りますが、「密」こそがオーケストラ音楽の本質だとしても、それをいまオーケストラが取り戻すのは難しいという状況はまだまだ続きそうですね。

豊田 もっとアンサンブルを大事にしましょう、もともとは密でないとアンサンブルはできないです、というようなことを言うのは簡単なんですけども、彼らも生活がかかっているので、その部分をばっさり切っていいのかどうかは、難しいところじゃないですか。

林田 そうです。だって、急場しのぎのためにあれほど真剣にやっているのは見ていて痛々しいというか……。でも、しかたがない、それほど追い詰められてるということの表れでもあるわけですよね。

豊田 でも、密であることはアンサンブルにとって重要なんだ、ということは言わなきゃいけない。いま、距離を取ってやってることが、近い将来コロナがなくなったときに、離れてやるのはやっぱり良くないんだ、ということがわかるためにやってるんだったら、それはそれでいいんですが、それ以上の時間と労力はかけないで、別のところにかけたほうがいいんじゃないんですか? つまり、コロナ終わってからも残るものに、ということです。

林田 それはやっぱり室内楽のような気がしますね。

豊田 もう一方の切り口としては、やっぱり現代音楽ですね。たとえば、ピエール・ブーレーズ・ザール[豊田泰久が音響設計を担当し、2017年開場したベルリン国立オペラ劇場に隣接する室内楽用ホール]でダニエル・バレンボイムとエマニュエル・パユが企画して開催したリモート現代音楽祭「A Festival of New Music」のような──ようするに、お客を入れず、しかも距離を離さなきゃいけない、いまの状況で演奏されることを前提に委嘱された新作を演奏して、解説して、YouTubeで流す──そのやり方はまさに理にかなっています。いまの時代でなければつくれない曲でしょ。そこにはやっぱり意味があると思うんです。ただ、そうでなくても現代音楽はお客さんが入らないのに、どうやってやるんだという意見もあるかもしれませんけど、でも、いまだから意味があることのうちのひとつではあると思います。

林田 現代音楽だと客は入らない、難しい、みんな尻尾を巻いて逃げちゃう、と決めつけるんじゃなくて、そういう状況を変えたいと真剣に思わないといけませんね。すごく面白い世界なんだから、自信をもって実践できればいいのになって、思いますけどね。

豊田 そのためには、ビッグネームの音楽家──話題の人気指揮者や人気演奏家が自分の口で、この曲はこういう趣旨で書かれていて、自分はこう演奏したいと思っているとか、そういうことを喋ったらいいと思うんです。いま普通のコンサートでは、ちょっとそこまで密なコミュニケーションはできないですが、それこそオンラインだったら密な状況をつくれるじゃないですか。顔もクローズアップしながら。

林田 指揮者の山田和樹さんが、2012年にサントリーホールのサマーフェスティバル[主催:サントリー芸術財団]でクセナキスのオペラ《オレステイア》をやったときに、この公演がすごく良いということを自分で発信されていたのですが、私もそれに共感して、練習場まで行ってインタビューして、自分のラジオで流したりしましたけど、結局サントリーホールがクセナキスで満員になりましたからね。やっぱり、発信力のある人が自信をもって「面白いよ!」と熱心にアピールすれば、クセナキスだろうが何だろうが絶対に満員にできるということだと思うんですよね。

豊田 クセナキスだけど、クセがある指揮者に解説してもらえればね(笑)。

林田 オーケストラのメンバーにとっての音響という話になりますが、コロナと関係なく、あれは耳を守るためだと思うんですけれど、椅子の後ろにアクリル板を置いてるオーケストラって、欧米にあるじゃないですか。

豊田 うん。もういっぱいあります。アクリル板だけじゃなくて、とくにアメリカのオーケストラの楽団員はみんなユニオン(組合)に入っていて、楽団から認められているんですけれども、バックステージに耳栓が置いてあるんですよ。

林田 耳栓をしてるという話も聞きますね。

豊田 とくにアメリカのオーケストラをよく注意して見ていると、ブラス(金管)が出る前に木管楽器は耳栓してますよ。

林田 その曲のその箇所に入る前にってことですか。

豊田 そう。その箇所が終わったらみんな耳栓を外すんです。でもオーケストラっていちばん、人の音を聴きながらアンサンブルをつくるところなのに、アクリル板を使ってるとか耳栓を使ってるとか、一般の方にはけっこうショッキングな話ですよね。

林田 そうなんですよ。おたがいの音を聴かなければいけないオーケストラで、なんでほかの楽器の音を聴かない操作をしてるんだろうって、すごく思います。オーケストラの発する音の渦がいかに演奏家たちの耳に過酷なストレスを与えてるか、ということを考えると、なんともいえない気分になるんですよ。

豊田 でも、ひどいときはそれ、ホールの音響のせいにされたりするんですよ。

林田 そっちにくるんですか。

豊田 でも、これはもう絶対的な音量の問題で、ようするにブラスの音が大きすぎるんですよ。これをコントロールできるのは指揮者だけです。よっぽどすぐれたトランペット奏者なら、自分でコントロールしますけどね。ブラスの楽器でパンパンパカパーンって吹くのは、やっぱり気持ちがいいんですよ。トランペット吹きの有名な小話があるんです。坊やとママがいてね、坊やが「ママ、ぼくは大きくなったらプロのトランペット吹きになりたいんだ!」って言うと、ママが「坊や、プロのトランペット吹きにはなれるけど、もしプロのトランペット奏者になったら、大人にはなれないわよ」(笑)。

林田 すごいですね、それ(笑)。

豊田 昔、札幌交響楽団にすごいトランペット奏者がいたんです。その後、東京藝術大学教授になられた杉木峯夫(みねお)さんという人です。杉木さんがおられた当時の札響は、もうほんとうにヨーロピアンのオーケストラで、弦楽器はまたすごい音がしてて、東京のオーケストラが束になって逆立ちしても敵わないくらい良かった。ぼくはたまたま札響にいろいろ深くかかわることがありまして。札幌コンサートホールKitara[1997年開場]の設計を始めたときに、札響のことをいろいろ調べたんです。

林田 事務局長の竹津宜男(よしお)さんがお元気だったころですよね。笑顔の素敵な、昔気質の良い方でした。

豊田 竹津さんは札響の生き字引みたいな方でした。ぼくと同郷なんですよ。福山生まれで、広島大学の医学部に入学されたのですが、趣味のホルンが高じて医学部は中退されて、結局プロのホルン奏者としてオーケストラへの道に進まれました。ぼくが初めてすごい札響を聴いたのは、それはもう岩城宏之さんのころ[1975-78年正指揮者、78-88年音楽監督に在任]だったんです。

林田 何年ごろですか?

豊田 1986-88年くらいですね。それで、1987年に岩城さんがサントリー音楽賞を受賞されて、なんとN響じゃなく札響をサントリーホールに連れてきて受賞記念演奏会をしたんです。最初に武満徹の《弦楽のためのレクイエム》、2曲目と3曲目も武満さんの曲[《ア・ウェイ・ア・ローンII》《ウォーター・ドリーミング》]で、最後はブラームスの交響曲第2番。そのころサントリーホールでは、ぼくも駆り出されて日本フィルハーモニー交響楽団と一緒にひな壇を上げたりする実験をいろいろやってたので、ひな壇を上げたほうがいいっていうのはわかってて[当連載第1回を参照]。それで、竹津さんにも頼んで、岩城さんにひな壇を上げてほしいって言ったら、ああ、もうどんどんやってくれと言ってくれた。東京のオーケストラと違って、彼らにとってはサントリーホールは初めてだから興味津々で、それでどーんと25センチ上げた。するとぜんぜん音が違うんですよね。

林田 センチ刻みで上げ方に段階があるんですね、あそこは。

豊田 もうすごいバランスの音がして、とにかくブラスは弦楽器を邪魔しないし、弦はばんばん出てくるし、もうとにかくみんなが唖然とするくらい良かったんですよ。それから7、8年経ったころ──Kitaraの設計が始まったころの話ですけど──たまたま聴いたら、もうぜんぜん違うオーケストラになっていました。

林田 武満さんは札響のことを絶賛しておられましたものね。でも、そんなに短期間でオケは変わっちゃうものなんですかね。

豊田 みたいですね。ベルリン・フィルだって、カラヤンが引退してからすぐに変わっちゃいましたから。だからぼくとしては、Kitaraをあの札響のために設計するんだから、どうやってかつてのあの札響の音が作られたのかということをどうしても知りたかった。もうそれこそいろんな人に聞いて、だいたいわかってきたんです。いちばんの功績者はペーター・シュヴァルツ。バンベルク交響楽団のチェロのトップをやってたのを、岩城さんが札響に連れてきたんですよ。シュヴァルツは指揮をやりたくてしかたがなくて、1970年ごろですけど、札幌に引っ越してくるんですよね。いまみたいにマエストロが行ったり来たりする時代じゃなくて、じっくり腰を落ち着けて、アパート暮らしを始めるわけですよ、札幌で。

林田 1960年代ですか。

豊田 1970年代の最初くらいかな[シュヴァルツは1970-75年に札響常任指揮者を務めた]。

林田 その時代に指揮者がひとつのオケと付き合うというのは、そうやって腰を落ち着けてじっさいに街に移り住むっていうことでしたよね、一緒に音楽をやるということは。

豊田 当時はジェット機で移動して、オーケストラを次から次に振って回るような時代ではなかったんですよね。そしてそのころ、札響には音大を卒業した若い弦楽器奏者が大挙して入ったんです。彼らはまだ日本のオーケストラの音に良い意味で慣れていなかったから、ペーター・シュヴァルツの言うことを全部吸収していった。それで、ヨーロッパの弦の音がするようになったんです。そこに、日フィルの分裂騒ぎが起こった[放送料により同団を運営してきたフジテレビと文化放送が、1972年にオーケストラの解散を通告。楽団員の多くは自主運営で演奏活動を続けたが、当時の首席指揮者・小澤征爾を中心に新日本フィルハーモニー交響楽団が設立されるなどの分裂が起こった]。キーになる木管のじょうずな人が札響にどーんと行っちゃった。そこに、トランペットの首席がいないといって招聘されたのが杉木峯夫さん。リヨン・オペラにいたトランペット奏者です。ぼくは杉木さんにもインタビューしたんです。杉木さんはそのへん、ぜんぶわかってる人で、ようするにトランペットが邪魔するとオーケストラがぐちゃぐちゃになってしまうから、ほかの音を邪魔しないように正確な音を吹く。それでもトランペットはオケの中ではちゃんと聞こえるんですね。弦楽器は自分たちで自分の音を聴くことができるようになる。そうすると、おたがいの音を聴くようになって、アンサンブルがちゃんとできる。ペーター・シュヴァルツはそうやって、札響を自分のサウンドのオーケストラに仕立てあげていったのではないかと思います。

林田 ペーター・シュヴァルツはバンベルク交響楽団にいたということですが、1960年代にバンベルク交響楽団を指揮していたのは、ヨーゼフ・カイルベルトですね。

豊田 その当時、岩城さんは客員でバンベルクに行っているんです。つまり、かつての札響はそういう音をしてたわけですよ。そのころの札響にいた人たちにいろいろ聞いてみると、たとえばブラスの人たちは、杉木さんがトランペットのトップに座ったときにはもうみんなびびって勝手に音を出せない。ちょっと強く出すと、杉木さんににらまれて「出しすぎ出しすぎ」って。ファースト・トランペットが大きな音を出さなかったら、ほかの人はそれ以上出せないってみんな言いますよ。逆にファースト・トランペットがバーンとやっちゃったら、そりゃみんな喜んでバーンとやる。

林田 トランペットでぼくもうひとつ、思い出したのは、オクタヴィア・レコードの江崎友淑(ともよし)さんのことですね。若いころはトランペットで将来を嘱望されていたけれど、海外で歯を治療したさいに、麻酔薬が原因で顔面麻痺を患い、トランペット奏者の道をあきらめて、レコーディング・プロデューサーになった。ポニーキャニオンに就職して、そのあとオクタヴィア・レコードを立ち上げたわけですけれど、やっぱり江崎さんは音楽家の耳でディレクションするんですね。その江崎さんが、トランペットが抑制することがどれほど重要かということを力説してたのを聞いたことがあって、いまでもよく覚えています。すぐれたトランペット奏者は、絶対に抑制された音でオーケストラ全体に影響を与えるべきであると。ただし、トランペット奏者が力の入った音を、ピアニッシモで演奏することがどれほど困難であることかということもまたおっしゃっていましたね。あるめだたない場面で、たったひとつかふたつの音を抑制的に力強く出すために、交響曲1曲吹くのに使うくらいの体力を使うんだって言ってました。それくらいたいへんなことだと。豊田さんのお話をうかがって、いまそのこととつながりましたけれど、トランペットは特別に重要なんですね、オーケストラ・サウンドの中で。

豊田 もう、オーケストラを生かしも殺しもしますよ。

◎ウィーン・フィル来日に思う

林田 さて、この対談の最初[当連載第1回参照]に話した、コロナの時代にオーケストラが舞台上で密な配置で演奏するかどうか、ということに関連して、この秋、日本ではちょっとした騒ぎが起きていたんですよ。11月に来日したウィーン・フィルが日本に到着して、オンライン記者会見をやったんですが……。

豊田 私も林田さんのあのレポート[*]は読みました。

*──「来日したウィーン・フィル「未来への道筋」~記者会見で受け取った強いメッセージ」、ウェブマガジン「ONTOMO」2020年11月4日掲載
https://ontomo-mag.com/article/event/wphweek2020-2/

林田 私、豊田さんからこの話をうかがっていたから、ウィーン・フィルにぶつけてみようと思って、質問したんですよ。

豊田 それはよかった。ウィーン・フィルは──これはもう別のところでも聞いていましたが──まさに日本へ来た記者会見で、それをはっきり言ってたでしょ、密になって演奏しなきゃいけないんだと。

林田 そうです。そうでないとクオリティを保てない、とはっきり言ったんです。

豊田 すごくいいコメントで、重要なポイントです。あと、この前[当連載第2回を参照]にもお話ししましたでしょう、ベルリン・フィルがいま何をやってるかということ。要するに、「デジタル・コンサートホール」というプラットフォームを作って、そこでコロナ時代でも聴衆に届く方法を──まあ、コンサートに代わるとまでは言えないですけど──、コンサートをサポートするものとして構築してるわけですよね。

林田 コロナ後にも続くものとして。

豊田 そう。コロナ後にも続くものとしてね。それは、かつてレコードからCDになって、それがいまでは動画のストリーミングになり、それがアーカイヴになってきているわけですよ、ひとつの流れとしてね。コロナが出てきたからストリーミングがボーンと出てきたんじゃなくて、それまでにもベルリン・フィルはアーカイヴを一生懸命作ってきたわけですよ。ぼくは今回このコロナが始まったときに、そこにどういうソリューションがあるのか、ずっと考えていた。いまオーケストラもみなクローズして、ロサンジェルス・フィルも来年の6月まで全部キャンセルになりました。だからもうコンサートなしですよ。

林田 とんでもないことですね。

豊田 アメリカはほとんどそういう状態だと思います。

林田 METもそうですしね。

豊田 それに対してどういうソリューションがあるのか、何をすべきなのかということをいろいろ考えさせられて、やっぱりベルリン・フィルのやってることは、ひとつの答えだと思うんです。でも彼らはステージの上で距離をとって演奏しているわけですよ。で、それに対する答えを、今回ウィーン・フィルがもってきてくれたと思うんですよね。

林田 すごいことですよ。

豊田 ウィーン・フィルは団員に対するPCRテストをひとりひとりが何十回も、何日かに1度やって、密でできる状態ををキープしてるわけですよね。極端なことを言いますが、演奏者さえいれば、もう聴衆はいなくても音楽は成立するんです。録音はそうですからね。お客さんのことを考える前に、まずオーケストラがステージにいて、密なアンサンブルがあれば、音楽はしっかり保たれることになる。あとはお客さんが来られないということだけですから、ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールのようなものを構築すればいい──これからのオーケストラはそういうことを考えなきゃいけないと思いますね。かつてレコードがCDになって、ひじょうにクリアな音、きれいな音が出るようになって、もうコンサートはいらないんじゃないかとも言われましたが、そうはなっていない。それはデジタル・コンサートホールのような配信になっても同じだと思うんですよ。ライヴと両方、並立すべきもので、コロナがなくなっても残る。第2、第3のコロナが来ても、オーケストラがサヴァイヴする方法としてそれは有効なんじゃないか。一方で、ベルリン・フィルがやってるように舞台上で離れて演奏するのは、まあ地方のオーケストラもみんな苦しみながらやってるし、一時的な便法としてはしかたないと思いますから、あえて全部否定したりはしませんが、その努力は、繰り返しになりますけど、コロナが終わったらもうみんな必要なくなって、忘れてしまうと思うんです。あえて言えば、離れてやってみたらやっぱり良くなかった、アンサンブルを作るうえで具合が悪いということを理解できた良いチャンスだった、という程度の意味しかなくて、じっさいコロナがなくなったら、やっぱりウィーン・フィルが示しているように、密なアンサンブルを作らなきゃいけないんです。つまり、ウィーン・フィルとベルリン・フィルのソリューションを組み合わせると、ぼくはひとつの解答ができるんじゃないかなと思っています。

林田 今回は、そういう意味でも、数あるウィーン・フィルの来日公演の中でも、歴史に残るものになったんじゃないでしょうか。

豊田 そうですね。他は全部キャンセルされてますからね。だからこそ、突破口になるかもしれない。でも、ここで感染者が出ちゃったら、もうめちゃくちゃになっちゃいますね。

林田 ウィーン・フィルの団員は、日本にいるあいだは、ほとんどホテルに軟禁状態だったそうですね。

豊田 お客さんのコロナ感染をコントロールすることは、まずできないでしょ? だから、最悪、お客さんは入れない、空席ということも考えなきゃいけない。その場合にはコンサートホールは録音スタジオになっちゃうわけです。でも、オーケストラをコントロールすることは、ぼくはできると思う。野球でもサッカーでも相撲でも、最初は無観客で、プレイヤーだけは全員、何日かに1度、定期的にPCR検査をやってクリーンな状態にして、ゲームをやっているじゃないですか。オーケストラも70人、80人だけの話だったら、申し訳ないけれども彼らを軟禁状態にして……。

林田 必要なら何度でもPCR検査をして、その代わり、ステージの上では密でやると。それがオーケストラの本来の音楽をサヴァイヴさせることですよね。

豊田 そう。それは可能ですよね。

林田 まさにウィーン・フィルがやってみせていることですよね。

豊田 観客相手にはできないけども、オーケストラ相手ならできる。だから、繰り返しになりますけど、今回ウィーン・フィルが来て、ソリューションはこれだ、というのが見つかったなあと思いました。

林田 ひじょうにタイムリーでしたね。

豊田 いずれにしても、オーケストラにはそれぞれ自前のアーカイヴを作ってほしいですよね。それは絶対にプラスに働くと思います。アーカイヴを作るとなると、こんどは演奏のクオリティもあげなきゃいけないし、技量も上がっていくと思います。ずっと残っちゃうわけだから、下手なことはできない。でも、尻込みしてたら、いつまでたってもベルリン・フィル、ウィーン・フィルが牛耳って、レコーディングも、配信の世界も、全部彼らの天下になっちゃうじゃないですか。日本のオーケストラはいつまで経っても、本当の意味で勝負に出ていけないよね。

林田 ぼくの身近な人で、最近クラシックをたくさん聴きはじめた人が、コロナをきっかけに、ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールに入会して、ネットでそればかり聴くようになりました。初心者であればあるほど、このままだとベルリンやウィーンばかりが身近になっていく。東京に住んでいるのに、東京のオケが完全にスルーされている。それでいいんだろうかと強く思います。

[了]

◀ 1.オーケストラにとって〈密〉とは?
◀ 2.シカゴ交響楽団とクリーヴランド管弦楽団3.〈密〉を取り戻すのが難しいなら、いまやるべきことは?

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