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ちいさいときに本物の絵をみてよかったこと

アートよちよち歩き(@art_yochi2)です。

先日、過去の学習歴をふりかえってみました。小学生ごろまでにみた絵画って、おぼえているものなんだ、と意外でした。

ちいさいときに本物の絵をみてよかったことってなんだろう、とおもったのでかいてみます。

子どもは子どもの絵が好き

出どころは忘れましたが、人間は自分と同年代の造形に共感を得るをそうです。子どもは子どもの絵があると興味をもちます。

絵画だと、親子が描かれた絵とか、それこそ《麗子像》は女の子の絵ですね。ちょっとコワイけど。意外に、日本人の少女像(で女性から見てエロさの作為がないと思えるもの)はじっさいに見ようと思うと、探しに行かないとないんですよね。西洋人少女はみつかるんですけどね。親子像だと、同伴者が小声で解説してあげる必要もでてくるでしょうね。抱っこしてるねーとか。

あと、子どもは身長が大人よりも低いので、大人向けに設定された絵画の高さと目線が合わないこともあると思います。逆に、肖像画の足元に配された子どもや動物に目が行くこともありました。お、子どもいた!とか当時思ってたんですよね。ばっちり目が合った気がして(笑)何の絵だったかぜんぜんおぼえてないけど。

美術関連の授業で、ものおじしなくなる

美術館や絵画展にいくと、好きな絵や、ひきつけられる絵が、ひとつやふたつは見つかりました。

その絵を見たときの、圧、というか、迫力。それは忘れられない体験でした。この絵を描いたひとは、とんでもない集中力をもって描いている。ないしは楽しんで描いている。カレンダーに印刷されたものとは違う、絵からのエネルギーの注入。そのときは言語化できませんでしたが、そういったことを絵画から感じ取っていたと思います。

この体験が、その後、学校教育の授業で絵を描かされる際、「自分の好きなことを描いていいんだ」という自己肯定力につながっていました。わたしが描きたいんだからこのテーマ、という説得力。理由はなくていいのです。自分が描きたいのですから。

学習指導要領における美術単元

わたしは不器用です。絵も、折り紙も、ミシンも、学校でさっとできるほうではありませんでした。

保育園時代は、絵を無意識で描いていました。「さあ、運動会のようすをかきましょうね」「保育園のおともだちをかきましょうね」で、思ったとおりのことをクレヨンで画用紙に表していました。そこに自意識や作為は、わたしにはありませんでした。

じつは私の実家は、学習指導要領に基づいた教諭向けアンチョコとか、書籍「良い絵、良くない絵」とか、が無造作に転がっている家でした。そんで、小学校にはいったらもう、そういうのをみてるので、「あ、この構図が単元目標なんだ」「混色を体験し、水彩の表現方法の多様をこころみる、はいはい」てかんじの小学生でした。不器用なりに、そういうのを見てるから、追いつけるみたいな。

でも、小学生時代、そんなに苦手意識はありませんでした。ゆがんだ《麗子像》でも、ガッツリ、ザ、さかな!な《鮭》でも、牛さん音符さんウフフアハハ~なシャガールでも、みんな好きに描いてるやん!というのが、無意識下で分かっていたからだと思います。

学校教育では、週二時間とか、図画工作や美術の時間があります。小学校中学校をいれると、九年間、毎週。絵画にかぎらないですが、毎回、何らかの創作を要求されます。ともだちの絵とか、自画像とか、地元の風景とか、遠近法とか。ばくぜんと、これがうまい絵、とか、もとめられている絵、とか、授業時間内に完成させられるか、とか、評価のものさしはありますが、じっさいよくわからない生徒も多いのではないでしょうか。なにを描いていいかわからない。

自分が描きたいものを中心にすえて描け

自分が描きたいものを描けばいいんだよ。そのための技法をいろいろ教えてくれるのが美術の授業だよ。そんな考えをささえる、美術教育における自己肯定力をくれていたのが、ちいさいころに見た本物の絵だったと思うのです。

ではまた。


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