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「美術館女子」から垣間見る真の偏見。

先月初めに、美術館連絡協議会と読売新聞オンラインが企画したウェブサイト「美術館女子」が炎上したことは記憶に新しい。様々な批判や記事が書かれる中、この企画を問題として提起している人の間にはびこる"真の偏見"についてはほとんど言及されていません。
今回は、偏見の再生産をしているのは誰か、ということを掘り下げます。

はじめに(追記 7/23 23:10)

あまりに色々突っ込まれるので補足することにしました。
今回の投稿は「企画の批判」でも「企画の擁護」でもなく「企画の批判の批判」です。

この記事を投稿してから、「この企画の問題点は〇〇女子とラベリングしてること」と色んな人に言わました。

私もそう思います。

でも、私が今回話したいのは「批判をしている人」は本当に偏見なく批判をしていたか?という疑問提起です。

いうならば、この記事は「この企画許せない!」という人向けではなく、「この企画に賛同かどうかはともかくとして、この企画対する批判には疑問がある」という人向けの文章です。
よろしくお願いします。

発端

6月12日、美術館連絡協議会と読売新聞オンラインは「美術館女子」を発表しました。(現在、ページは公開を終了している)
第一弾は美術館女子として、AKBの小栗有以さんが東京都現代美術館を訪れました。
 (写真はSNSなどから拾ってきた為、サイズが違うなどはご容赦ください)

このように、作品や美術館を背景に写真を撮っていたようです。

反響

この企画に対し、6月12日の公開以降、SNS上では批判の声が相次ぎました。
指摘されている主な問題は、「〇〇女子」という言葉に含まれるジェンダーバランスへの意識の欠如、女性が無知な観客であるように扱われている企画づくり、美術館がいわゆる「映え」のみの場所としてとらえられかねない見せ方をした点にある、そうです。

一時はTwitterのトレンドになるほど反響を呼び、結果として、「美術館女子」の企画は停止されました。

その他の主たる批判が気になる人はこちらを読むとわかると思います。
美術手帖:「美術館女子」は何が問題だったのか。「美術界のジェンダー格差を強化」「無知な観客の役割を女性に」

それって、本当にそうなの?

という一連の流れを私はみていましたが、どうも主張に納得できません。
この企画が、反感を買いやすい内容だったことは同意できますが、私個人としては反感を持っていません。どうも世間の人たちは過剰に叩いているように感じています。
その上で、私が何に納得できないかを考えてみると、どうやらこの3つが主たる疑問です。

1.本当に小栗有以は無知な観客だったか (企画は女子を差別していたか)
2.インスタ映えはアートを軽視しているのか (インスタ映えを契機にアートを理解することはないのか)
3.アートを理解することが”偉い”のか  ("理解"はアートに対する最適な接し方なのか?)

1.本当に小栗有以は無知な観客だったか

批判の中に、「美術が脇役で女性が主役になっている」「作品の方を向いた写真がない」と言った意見がありますが、であれば「美術を主役に置くことが正しい演出」「作品を向いていれば理解」なのでしょうか。

一つ目ですが、「美術が脇役で女性が主役になっている」は解釈の分かれる曖昧な表現なので、おそらく同じ意味の「女性が際立つ構図の写真が多い」と置き換えて読みます。
果たして、「女性が際立つ構図」は「無知な役割の女性」を生産しているでしょうか。もしこれを「美術作品より女性が目立っていれば、女性は無知のアイコンとして扱われている」と主張するならば、それは完全に言いがかりかと思います。

「作品を向いていれば理解」ですか?作品は視覚だけで楽しむものでしょうか。あるいは、視界に入っていない作品は理解できていないはずですか?
作品が置いてある空間を楽しみ、理解し、そうしたからこそ、この位置に佇むことを選んだのかもしれません。
彼女がこの場所でこのポーズをとったことは、彼女の無知ゆえで、そこに理解が介在していないと、あなたは言い切れますか。

東京現代美術館のシンボル的存在にもなっている彫刻「太陽のジャイロスコープ」。「神々しいまでの美しさ。一番印象に残った映えスポットです」
アルナルド・ポモドーロ《太陽のジャイロスコープ》1988年(部分)

映えスポット、という言葉に引きづられすぎているのではないでしょうか。これをみて、「この人はこの作品のことを何も理解していない」と断言できるでしょうか。
天球儀を模したその彫刻から作者が込めようとした宇宙と太陽の力強さを、肌で感じ、だからこそ「神々しいまでの美しさ」とコメントしたのではないですか?
数ある作品の中から1番に印象に残るほど、金属の彫刻に感銘を受けたその感受性を、美術に対する理解がない(無知な役割を演じさせられている)と断言できますか。

柔らかい光が差し込む館内で。「アート作品と共演するということで、今日のコーデは、作品のパワーに負けず、且つ、うまくなじむ色を意識してみました。映え写真、いっぱい撮れるかな?」

あるいは、批判を浴びるとしたらこの辺りでしょうか。
私はこれは単なる写真撮影に対する意気込みだと思います。
これを、「女性に無知な観客の役割をさせている」というのなら、それは、あなたが、こういうコメントを「美術に対する無知からくるコメント」だと捉えているのだと思います。
彼女が、パワーに負けずなじむ色を選ぶために「作品を調べ、その過程で作品に対する理解を深め、その上でいくつかの選択肢から調和することを選んだ」という可能性を、あなたは否定しきることができますか。

何が言いたいかというと、これらの文章と写真からは、それを断言できないはずなのです。
にも関わらず、これらの写真を「女性に無知の役割を強要している」と感じるのであれば、あなた自身が「これらの表現と行動を無知からくるものだと考えている」あるいは、あなた自身が「女性を無知」だと決めつけて判断しているのではないでしょうか。
企画作成に全く偏見がなかった、と言うつもりはありませんが、それでもこの作品を一意に「女性への無知の役割の押し付けがあった」と言いきることは私にはできません。

要するに、見た人自身が、AKBの小栗有以さんは、美術と美術館を理解した上で撮影に挑んでないと決めつけているのです。
偏見を生産していたのは、あなたなのかもしれません。

2.インスタ映えはアートを軽視しているのか

次に疑問として感じるのは、「インスタ映えはアートの理解と対立するのか」ということです
批判しているみなさんは口々に「美術館を軽視している」だの、「美術館がインスタ映えのみの場になってしまう」だの言いますけれど、インスタ映えは美術を理解するためのきっかけにはならないんですか?

インスタグラムのユーザーの多くが、若年層の特に女性に集中しているのは事実です。インスタ映えを狙った企画のターゲットの一つは、その世代であることは間違いありません。であれば彼女らが美術館に来て、同じように写真を撮ることが多くなるかもしれません。

そういった行動がアートを楽しむ人たちからは嫌われているみたいですが、なぜですか?「インスタ映えする層は定着しない」という反論を見ましたが、本当ですか?そもそも定着していることが理解している証なんですか?

どうやら「『インスタ映え』を喜ぶ女子は美術に興味なく、(あまり)アートを理解しないで、美術を自分を飾り立てるコンテンツとして消費する」という見方が主流のようです(これはめちゃくちゃ批判くらいそうな意見だと思います。そんなことない!って言われそう)。

本当でしょうか、彼女らが「インスタ映え」を好むことと「芸術を理解しない」ことにはどんな関係があるんでしょうか。
みんなあまりに言いますけれど、統計でもあるんですか?見せてください。

「インスタ映えが美術の理解(あるいは入口)にならない / インスタを使う女子は美術を理解しない」というのは、それもまた偏見ではないでしょうか。
あなたたちは、インスタ映え女子もまた「無知の象徴」として捉えているのです。根拠がない以上は、それは偏見にすぎません。

こういう話を指摘すると、みんな「いや、そんなことは思ってないけれど…」と反応が悪くなります。

私はみんなが思ってるか、思ってないかはどっちでもいいですけれど、もし「今まで無自覚にそう思っている自分がいたこと」に今気づけたなのなら、この投稿を書いた価値があるなと思っています。

3.アートを理解することが”偉い”のか

ところで、アートって必ず理解しなきゃいけないんですか?
インスタ映えははなぜいけないんですか?
インスタ映えが美術や美術館を軽視しているというなら、尊重しているとはなんですか?

アート業界には、うっすらとした「アートは理解するもの」そして「アートを理解できるものが偉い」という空気が流れているように感じています。
でなければ、インスタ映えこんなに叩かれてないと思うんですよね。

総じて、美術館を「ハイカルチャー」に見ようとし、新しい試みに対して、アートの世界は冷ややかな態度をとる方が多い気がする。何に対しても崇高さを求めるような、そういう排他的な空気はあります。

ここらに関して私と似た意見の人がいたので書いておきます。
「Art in You」そして 3.11リライト・プロジェクトへの思い 〜芸術家・宮島達男氏インタビュー〜

アートは難解なんかじゃない。大切なのは、自分で感じ考えること。

宮島さん:ここで、ガールズ・アートークの読者の皆さんにとっても重要なことをお伝えしたいのですが、美術というと「難しい」とか「敷居が高い」と言われがちじゃないですか。でもそれは、アーティストはたまたアート関係者が、そういう方向に仕向けてきたんですよ。

gA:それは何故ですか?

宮島さん:自分たちの権威を守るために。
「君たちにはわからないだろう?僕たちが上で、君たちが下なんだ」という感じ方をするように教育されてきたんです。アーティストは天才で俗人には手が届かない、という考え方。みなさんも実際、そう思っていませんか?

gA:ありますね。芸術家は自分と別世界の人間だと、どこかで思っているかもしれません。

宮島さん:美術の歴史に名が残る人は初めから天才で、私たちには才能がないから作品の良さがわからないんだって思っていませんか? 

根拠のない、既得権益と偉ぶりたい空気によって、インスタ映えは批判されているのだと思います。

同時に、アートに対する接し方は"理解"が最適なのでしょうか。
「美術において理解は必要/尊いのか」「旧来的な理解以外の''芸術的情報の処理''があるのではないか」「そもそも、美術を''理解''するとは何か」などという議論を全くせずに、「アートは理解するもの」と伝統的な流れで決めつけているように思います。
やめませんか、そういう感情論で否定するの。

「アートはなぜ理解しなければならないのか」「なぜインスタ映えはいけないのか」「なぜ理解はインスタ映えより偉いか」と、いうことを論理だててから、「アートは理解するもの」と主張してください。

美術館と美術の違い

今回話を眺める中で、美術と美術館を混同してる人が多くいるように思いました。
美術はアートそのものですが、美術鑑賞は美術館で行える行為の一部でしかありません(大部分を占めるのは確かですが)。例えば、最近のオシャレなカフェのある美術館には「何も見ずにカフェとして使う」動線もしっかり用意されています。

美学者の「インスタ映えは美術を軽視している」という意見に対して「商売がわかってない」という批判がありましたが、これはナンセンスです。
なぜなら、そもそもお互い戦っているフィールドが違うのです。

この場合、美学者は「芸術」について、批判者は「美術館の経営」の話をしており、「理想は優れているが、それでは食っていけない」という議論に持ち込んでいます。

どうやら美学者は「純粋な芸術の話」がしたいのです。
そういう''崇高''な学問の場に、インスタ映えだの商業だの持ち込むのは、嫌われそうです。

民間である限りは、美術館の存続のためにはお金が必要で、儲けるために酸いも甘いも噛み分ける必要があります。
そのため、純粋に芸術の話をしたいなら「文化保護機関」や「国営」でやれ、というのが私の意見です。
お金が無く明日の日銭に困る人に、清く正しく生きなければならない、というのはなんとも的外れな意見ですよね。

美術館が人を呼ぶ為に、ある意味「俗っぽく」なる事に対して、芸術を論ずる側の方々は良く思わない実態があるように思います。
美術館にも公立私立あるので一緒くたにはできませんが、美術館が果たす役割について、美術館と、いわゆる美術を論ずる方々との間にすらズレがありそうです。

開き直って、「美術館男子」を撮ってみた

美術館女子の話題が冷めやらぬまま、私は役者の友人に声をかけました。
是非とも美術館で写真撮りたいなと思って。

これらの写真はあなたの目にはどう映ったでしょうか。
この写真は、美術館の鑑賞のついでではなく、最初から「撮影の為だけに」美術館に行っています。
企画もろくにみず、写真映えそうなところで兎に角撮って回りました。
なので、美術館女子とはほとんど企画としての差異はないと思います。
むしろ美術館女子の方が小栗有以さんへの事前レクチャーがあったかもしれません。
また、彼はどちらかといえば、美術館に興味はあるもののあまり行く機会がなく、小栗有以さんとバックボーンは比較的近いと思います。
もちろん、私とあの企画のカメラマンでは撮り方や、撮影で心がけていることも違いますし、作品の出来上がりも違うので印象も異なります。

それを差し引いた上で、
この写真はさっきのように、無知に見えるでしょうか。
アートを理解していないように見えるでしょうか。
それともアートを理解しているように見えるでしょうか。
女性から男性に置き換わったことで、あなたの写真に対する印象は変わりましたか?

変わったのだとすると、それはあなたが女性と男性に何を考えているか、ということの現れでもあります。偏見を再生産しているのは、あなた自身なのかもしれない。
だからこそ、アートは社会やあなたからの"反射 "そのものなのだと思います。

終わりに

美術館女子、企画の作成時に全く偏見なく進められた、と主張するつもりはありませんが、批判する人の中にも隠れた偏見はあるな、と感じていました。
しかし、この偏見は根強く、自分が偏見を持っていると認めるのは非常に苦しいため、見過ごされてきました。
みんなが、徐々に己に内在する偏見に、気づくことができたら良いなと感じています。

私自身は、美術館は崇高な場ではなく、開かれた場であって欲しいですし、公序良俗に反しない限りは、何やってくれても構わないと思いますね。

今回は、これでおしまい。

謝辞

友人について
友人は島崎晋之介という男で、都内で役者をやっています。顔がいい。
彼にはこういうことを書きたいからという説明は全くしていなかったが、「美術館で写真を撮らない?」という問いかけには心惹かれるものがあったみたいです。

(美術館公式サポーターみたいなポーズを撮らせてみたがそれっぽい。彼は顔がいい。)

島崎晋之介
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美術館について
友人を撮影したのは日本橋にあるアーティゾン美術館です。
多分この展示だったと思います。

アーティゾン美術館は、去年リニューアルオープンしたこともあり綺麗でオススメです。おしゃれなカフェが美味しいし、建物も新しくてインスタ映えもする、あとよく覚えてないけど展示会のレベルも高かった気がします。

いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!